【結局釈迦じゃん!?】分離という傷、創造という答え — 創造性の意味
北海道の十勝エリアに引っ越してき一年近くになります。
多分あと一回くらい冬を越す可能性が高いですが、仕事の都合上やはり関西にいたほうがいろいろと動きやすいので来年は関西に引っ越す予定。
ではありますが、、、
北海道への移住で学べたことというのはそれはそれはもう膨大で。
もちろんGPS技術の面でみても、なんといいますか、俯瞰力が上がると言いますか、やはり想像を絶するほど広大な大地ですので、運転しながらGPSに意識を向けていると、ふとアイディアが出てきたりする。
もう一点が哲学的な考察について。
いろんな場面で人を観察していく中で心理学や精神学などの面を学びたいと思うようになりました。
田舎町だからこその絶妙な密度が生んだ問いかけなのかもしれません。
今日のテーマ
今回は分離不安について。
特に深い意味はないのですが、ふと思ったことがあります。
『人はなぜ、他者を自分の思い通りにしたがるのか』
もっと社会的にいうと、同調圧力といいましょうか。
これは独裁とか、支配とかよりも、同調を求める力という意味の方が近いと思います。
あまりにも強く同調を求める人の心理はどうなっているのか?すごく気になったので考察してみたわけです。
ここでは、その分離をめぐる思索と、そこから見えてきた創造性という一つの答えについて書き留めておきたい。
分離という、人間だけが負う傷
フロムは『自由からの逃走』や『愛するということ』で、人間の最も根源的な問題を分離だと考えていました。
人間は自己意識を持ってしまった存在である。
自己意識の定義についてはまた別の機会で話すとして、つまり「自分は他者や世界から切り離された、独立した個体である」と自覚してしまう性質を持っているわけです。
(例えばアリなんかを見ていると人間ほど独立した視点を持っているようには見えませんよね)
この自覚こそが、耐えがたい不安の源になる構造が備わっているというわけです。
ちょっとスピと混ぜると、ワンネスという概念がある反対側でこの人間的な本能である分離があり、分離が深ければ深いほど、人は四苦八苦を味わえるというわけですね。
ワンネスとフロムの分離、抽象化レベルを見てみると、情報量の差につながってくることがはっきりわかると思います。
ワンネスの情報は、極小であるのに対し、ここでテーマにしている同調圧力をかけたくなるほどの分離不安を抱えている人を定義するための情報は膨大です。
孤立していること、いずれ死ぬこと、世界に対して無力であること—それらをはっきりと知ってしまう。(四苦八苦と愛別離苦ですね。)
フロムはこれを、人間が自然との一体感という楽園から追放された代償だと表現しました。
問題は、この分離の不安を人がどう解消しようとするか、である。
フロムによれば、その道は成熟したものと未熟なものに分かれる。
まあ結局は釈迦じゃん!!という話なんですが。
最も未熟な解決 — 飲み込むか、飲み込まれるか
未熟な解決を、フロムは「共棲的結合(symbiotic union)」と呼びます。
二つの生き物が一体化して、互いの独立性を失う状態である。
これには二つの形があり、受動形が服従で、自分を消して相手に飲み込まれることで孤独から逃れる。
もう一つが能動形が支配で、相手を自分の一部として飲み込むことで孤独から逃れる。
つまり多数決で多い方に傾き(受動)、少数派を攻撃する(能動)という形。
みなさんの周りにもそういう人いませんか?
(本能的に)多数派に傾き、少数派を攻撃するというのは俗にいう思考停止人間であると言えます。
フロムの洞察が鋭いのは、支配する側もされる側も、本質は同じだと見抜いた点にあります。
どちらも「分離に耐えられない」という一点から来ているわけです。
だから、他者を自分に同化させようとする人は、強いのではなく、別個の他者が存在するという事実そのものに耐えられないというわけなんです。
誰かが自分と「違う」ことが許せず、その違いに対して単なる不快ではなく攻撃性まで示すとき、そこで起きているのは論理的な対立ではなく、単に実存的な防衛反応と見ることができるわけです。
この構造は、個人だけでなく集団にも及び、フロムはこれを「機械的画一化(automaton conformity)」と呼びました。
個人が自分を集団の型に完全に溶け込ませ、「みんなと同じ」であることによって、孤独な個であることの不安から逃れる。
「輪を乱すな」という同調圧力が時に異様な攻撃性を帯びるのは、異論を唱える者が、集団への同化によって保たれている各人の実存的な安全を、無自覚のうちに脅かすからなんです。
だからこそ、移民政策は難しい、異文化交流も難しい。(この分離不安システムに囚われている人々にとっては)
成熟した解決 — 分離したまま、つながる
ではフロムは、分離の不安に対してどんな成熟した答えを示したか。
一つは「愛」である。
ちょっと小話をはさむと、イエスは、釈迦の下位互換・・・だと思っていて、世の中のおよそほとんどすべてのことは釈迦とイエスが解決していると考えています。
ただしフロムの言う愛はイエスのいう無条件の愛ではなく、もう少しシステマチックな能力としての愛です。
決定的なのは、相手が自分とは違う独立した人間であることを保ったまま結びつく、という点にあります。
彼の定式では、愛とは「自分の全体性と個性を保ったままの結合」です。
分離は消えないけれど、分離したまま繋がれる——これが成熟の形だと言っています。
哲学の言葉を重ねれば、これはマルティン・ブーバーの「我と汝」に通じるところがあるわけですね。
相手を対象や道具として扱う「我-それ」の関係に対し、相手を独立した他者として全人格で向き合う「我-汝」の関係。
相手を思い通りに管理しようとする関係は、たとえ愛情の名のもとであっても、構造的には「我-それ」にすぎない。
他者を本当に他者として認めるとは、その他者によって自分が変えられうる余地を開いておくことにつながります。
そして、創造 — つくることが分離を癒す
ここからが、芸術分野の面白い話になります。
フロムは、分離の不安を癒す成熟した道は「愛」だけではない、と言っています。
実はもう一つあるんです。
それが創造的活動であるというわけ。
作り手が素材と向き合い、そこに自分を注いで何かを生み出すとき、人は世界から分離していながら世界と繋がるという体験をする。
しかもそれは、自分という人格を溶かさない繋がりであります。
私自身もそうですが、芸術家は他者に対してあまり干渉しません。
そして違う価値観に対して観察する視点を常に持っています。
分離不安を抱える人は自分のテリトリー、つまり「輪を乱される」こと、「異をフィールドに取り込むこと」に異常な不安を感じるというのが実際ですが、芸術家は異を観察し、積極的に肯定する(取り込むとは別)性質を持っている。
この違いは何か?という逆説的な探究から創造性が分離不安を解消するメソッドになっていることに辿り着きました。
すべて言語化する必要はなさそうですが、なるほど、合点のいくお話だと思う人も多いのではないかと推察しています。
おわりに — 違いを楽しむということ
おそらくこのブログは、分離不安を抱える人は読んでいないでしょう。
分離不安を受動と能動で解決しようとする人にとって、私のような存在は、不快であり、何よりも最大の脅威だからです。
この記事自体は『同調圧力が異常に大きい人物の分析』として見てくれればと思います。
私自身も、この同調圧力の異常に大きい人の心理を分析したいと感じて今回の記事に仕上げました。
こうした分離不安という現象が実際に精神医学の世界で存在しているということをはじめてしったわけです。
同調圧力に屈しない・・・とかそういう程度の低いお話ではなく、同調圧力が異常に大きな存在を現象として見たときに、「どういう心理なのか?」「どういう仕組みなのか?」を冷静に分析する楽しみを持つことが重要です。
分離を不安として体験する人は、違いを脅威と感じ、同化を求める。
分離を条件として引き受けられる人は、違いを豊かさとして味わい、そこから学ぶことすらできる。
同じ分離という事実に対する、まったく逆のアプローディであり態度である。
そして分離不安を解消するポイントは、(システマチックでもいい)愛と、創造性にある、分離不安が解消されると、四苦八苦から少しは解放される。
というメカニズムになっています。
四苦八苦からの解放は、抽象的な悟りとしてではなく、つくるという具体的な行為のなかに開かれており、何かを創り出すたびに、私たちは「独りでありながら繋がる」ことを、身体で少しずつ学んでいるのかもしれません。
昔は自分で作っていた服や家具、家までも、現在では人の手で作らなくなってきました。
手作りというのが俯瞰していくと、分離不安という釈迦の哲学に広がっていくこの思考の波紋を、今日1日楽しんでみるのはいかがでしょうか。
こうして考察し、さらに俯瞰力をあげていくと、釈迦が言ってる悟りというのは、実は普通に地球で生き、創造性以外を手放すことで意外とあっさり体験できるもの(釈迦自身もそういってます)であることがわかります。
そりゃそうですよね。
数千年前のインドよりも今日の地球人の方が進化していますから、悟りといっても実は簡単なことであるわけです。
さいごに世界のジョークで今回の記事にぴったりのジョークがあるのでご紹介しておきます。
豪華客船が沈みかけていて、船長が乗客を海に飛び込ませなければならない。
しかし、なかなか飛び込んでくれない。
そこで船長は、それぞれの国民性に合わせて一言ずつ声をかける、という話です。
アメリカ人には「飛び込めばあなたはヒーローになれますよ」
イギリス人には「飛び込めばあなたは紳士です」
ドイツ人には「規則ですから飛び込んでください」
イタリア人には「飛び込むと女性にモテますよ」
そして日本人には「みなさんもう飛び込んでいますよ」
日本人の同調圧力(みんながやっているなら自分も)を突いたオチが定番です。
なぜ日本人はそもそもこの分離不安を抱えやすいのか?については、またの機会に考察してみましょう。