今さらながら、2つの行動経済学の有名ゲーム
今日はコラムです。
「人間は本当に自分の利益だけで動くのか?」
この素朴な問いに、経済学はずっと「イエス」と答えてきました。
教科書に出てくる「ホモ・エコノミクス(経済人)」は、つねに自分の利得を最大化する、冷徹に合理的な存在ですよね。
ところが、たった2つのシンプルな実験が、この前提を根底から揺さぶりました。
今回は、その「最後通牒ゲーム」と「独裁者ゲーム」を、今さらながらじっくり紹介してみたいと思います。
ルールは驚くほど単純なのに、そこから見えてくる「人間とは何か」は、驚くほど文学的に(?)深いのです。
行動経済学を知ることで人間の心理学の大半を知ることができる、その結果、人間とは何か?について考えたくなる、考えてみるとなんとなくわかる気がする、でも気のせいだった。
このループを死ぬまで続ける有機物を人間と定義します。。。論理崩壊していますね。。。では本日紹介する2つのゲーム、いきましょう!
ゲーム1:最後通牒ゲーム(Ultimatum Game)
まずルールから。
プレイヤーは2人、AさんとBさんです。
実験者がAさんに、たとえば1000円を渡します。
Aさん(提案者)は、この1000円をBさん(応答者)とどう分けるかを提案します。
「自分が700円、相手に300円」でも「500円ずつ」でも自由です。
ポイントはここからなんです。
Bさんは、その提案を「受け入れる」か「拒否する」かを選べます。
受け入れれば提案通りに分配されますが、Bさんが拒否すると——両者とも1円ももらえません。
一度きりの勝負で、交渉はできません。
さて、もしBさんが「自分の利益だけで動く合理的な人間」なら、どう振る舞うべきでしょうか。
答えは明白です。
たとえ「Aさんが990円、自分が10円」という露骨に不公平な提案でも、拒否すれば0円なのですから、10円でも受け取る方が得です。
だから合理的な提案者Aさんは、「相手にギリギリ1円」を提示すればよい——古典的な経済学はそう予測します。
ところが現実は、まったく違いました。
「不公平なら、損してでも罰する」人間
世界中で繰り返された実験の結果、提案者の多くは相手に40〜50%、つまりほぼ折半に近い額を提示しました。
そして応答者は、取り分が全体の2〜3割を下回るような不公平な提案を、しばしば拒否したのです。
自分の取り分がゼロになるのを承知のうえで、です。
これは経済学的には「不合理」です。
10円でももらった方が得なのに、人はそれを蹴る。
なぜか。そこには「不公平な扱いを受けるくらいなら、相手にも損をさせてやる」という強い感情が働いています。研究者はこれを利他的処罰(altruistic punishment)、あるいは公平性への選好(preference for fairness)と呼びます。人は自分の損得だけでなく、「分配が公正かどうか」そのものに価値を置いているのです。
脳科学の研究では、不公平な提案を受けたとき、嫌悪や怒りに関わる脳の島皮質(insula)が活性化することも示されています。
不公平さは、文字どおり生理的な不快感を引き起こすのです。
これは一見すると、性悪説の証明のようにも見えますよね。
ゲーム2:独裁者ゲーム(Dictator Game)
さきほどのゲーム、鋭い反論が出ませんか?
「いや、提案者が気前よく分けるのは、拒否されるのが怖いからでは? 本当の優しさじゃなく、戦略的な計算にすぎないのでは?」と。
この疑問に答えるために設計されたのが、独裁者ゲームです。
ルールは最後通牒ゲームとほぼ同じですが、決定的な違いが一つあります。
応答者に拒否権がないのです。
Aさん(独裁者)が「自分にいくら、相手にいくら」と決めたら、それで終わり。
Bさんは、ただ受け取るしかありません。
純粋に合理的な独裁者なら、答えは一つですよね。
「全額自分のもの、相手にはゼロ」です。
拒否される心配がないのだから、分け与える理由がありません。
しかし、ここでもまた人間は予想を裏切ります。
クリストフ・エンゲルが100以上の実験をまとめたメタ研究によれば、独裁者たちは平均しておよそ28%を相手に分け与えました。
全額独り占めにしたのは全体の3分の1ほどで、残りの多くは何かしらを手渡し、きっかり半分を分けた人も少なくありませんでした。
つまり、「罰の恐れ」がまったくない状況でも、人は他者に分け与えるのです。
最後通牒ゲームで見られた気前のよさは、単なる戦略的計算だけではなかった。
そこには純粋な利他性や、「独り占めは気が引ける」という良心が、確かに含まれていたのです。
これまで性善説の証明のようにも感じます。
2つのゲームを並べて見えてくること
この2つのゲームは、セットで考えると味わいが増します。
最後通牒ゲームは、人間の「正義感」や「不公平への怒り」を照らし出します。自分が損をしてでも、ずるい相手を罰したいという衝動です。
一方、独裁者ゲームは、見られていなくても・罰されなくても発動する「素の優しさ」の量を測ります。
前者が「他者への要求」だとすれば、後者は「自分への要求」と言えるかもしれません。
そして両者を比べると、独裁者ゲームでの分配額の方が、最後通牒ゲームより低くなる傾向があります。
この差分こそが、「拒否されるのが怖いから上乗せしていた戦略的な気前よさ」の正体です。
人間の親切は、純粋な利他性と、自己防衛的な計算の、両方が混ざり合ってできているわけです。
文化によって「公平」は変わる
さらに面白いのは、これらの結果が文化を超えて普遍的なのか、という問いです。
人類学者のジョセフ・ヘンリックらは、産業社会だけでなく、アマゾンの狩猟民マチゲンガ族など世界15の小規模社会でこれらのゲームを行いました。
すると、提案額には大きなばらつきが現れたのです。
市場経済との結びつきが強く、協力して大きな獲物を狩るような社会ほど、提案は公平(折半に近く)になり、自給自足的で他者との取引が少ない社会ほど、提案は低めになりました。
ここから導かれる重要な示唆があります。
「公平さの感覚」は、人間に生まれつき備わった固定値ではなく、その社会の経済構造や日々の協力のあり方によって育まれ、形を変えるということです。
最後通牒ゲームのメタ分析でも、経済発展の度合いが低い国ほど、不公平な提案を拒否しにくい傾向が報告されています。
ついでに言えば、これらの実験の多くがいわゆるWEIRD(西洋の・教育を受けた・産業化された・豊かな・民主的な)社会の大学生を対象にしてきた、という方法論上の偏りも近年厳しく指摘されています。
「人間一般」を語る前に、「誰を観察してきたのか」を問う必要があるのです。
人間とは何か——2つのゲームが語る哲学とは?
では結局、この2つの小さなゲームは「人間とは何か」について何を教えてくれるのでしょうか。
人間は純粋な利己的計算機ではないということ。ホモ・エコノミクスは、現実の人間を描く肖像としては不正確でした。
私たちは損得勘定の外側に、公平・正義・尊厳・連帯といった価値を持ち込み、それらのために実際に身銭を切ります。
しかし人間は無条件の聖人でもないということ。
独裁者ゲームで全額を分け与える人はまれですし、提案額が文化や状況、匿名性の度合いによって大きく揺れることも分かっています。
誰も見ていなければ取り分を増やし、罰の可能性があれば気前よくなる。
私たちの善意は、環境と制度に敏感に反応する「条件付き」のものなのです。
進化心理学者はこの人間像を条件付き協力者(conditional cooperator)と呼びます。
人は協力し、分かち合い、不正を罰する傾向を生まれ持っている。
しかしその協力は、「相手も協力するだろう」という信頼と、「裏切り者は罰せられる」という仕組みがあってこそ、安定して花開くのです。
ここには、性善説と性悪説のせめぎ合いのようなものがあります。
孟子は人間に生まれつき「惻隠の心(他者を哀れむ心)」が備わると説きました——独裁者ゲームの分配は、まさにその芽のように見えます。
一方、荀子は人を放置すれば欲望のままに争うと説き、だから礼と制度で律せよと言いました——匿名性が高まると分配額が減る現象は、その警告を裏づけます。
2000年以上前の性善説と性悪説の論争に、行動経済学はどちらか一方ではなく「両方とも部分的に正しい」という答えを差し出しているのかもしれません。
たった1000円の分配ゲーム。
けれどその背後には、「私たちはなぜ他者と分かち合うのか」「正義とは何か」「人間の善意はどこから来てどこまで信じられるのか」という、人類が問い続けてきた問いが横たわっています。
今さらながら、二つのゲームがこれほど長く愛されてきた理由が、よく分かる気がします。