なぜ、日本の寿司はまずくなったのか?

—寿司の哲学と海洋漁業の変容から考える—

まだ関西に住んでいる頃、北海道への引っ越し前に昔懐かしい老舗の寿司屋に行きました。
頭をどうひねって考えても明らかにクオリティーが落ちている、記憶を紐解いても間違いない。

北海道に引っ越してきて、地元の人の紹介で、カウンター+価格表のない高級寿司屋にいってきました。
う、、、感動がない。

「日本の寿司はまずくなったのか?」

まずくなる、、と乱暴に聞こえるこの言葉には、二つの層が同居しているように感じます。
ひとつは味覚の変化を告げる舌の正直さ。
もうひとつは、寿司という料理が持ってきた“哲学”—季節・産地・職人技の三位一体—が、静かにほぐれ始めているという直感です。

今日は寿司をテーマにコラム回。
価格表のない高級寿司屋の大将に聞いた最近の海洋事情なんかも合わせて徒然なるままに寿司の素人が寿司を語るというとんでもないお話です。

寿司の哲学

まずは寿司の歴史を超ざっくりとおさらいしたい。

  1. 古代〜中世:熟れ鮓
     近江の鮒鮓に代表される発酵保存食。米は発酵のスターターで食べず、魚主体。
  2. 16〜18世紀:早鮓・押し寿司(上方)
     酢飯を採用し、米も食べる“料理”化。箱型で締める押し寿司が洗練。
  3. 19世紀前半(江戸後期):握り寿司(江戸)
     屋台発の“一貫ずつ握る”スタイル。ヅケ(醤油漬け)・酢締め・湯霜・煮穴子+煮詰めなどの前処理で、冷蔵のない都市に最適化。

江戸後期、つまり江戸前寿司というのが、現代の寿司のスタイルの原型とも言えます。
江戸の握り寿司は、江戸後期(19世紀前半)に都市型の“早ずし”文化から生まれた屋台料理。

冷蔵のない時代に酢・塩・煮る・湯引き・漬けなどでネタを「可食の最適点」に合わせ、江戸の町場のテンポに合う“つまみやすい一貫”として急拡大しました。
大手調味料企業の史料整理や食文化解説も、この成立時期のコンセンサスを示しています。mizkan.co.jp+1

資料にもあるように当初の握りは現在より“大ぶり”だった可能性が高いわけです。

江戸の屋台での握りについては、「一貫一口半」(=今より大きめ)や現在の約2倍(シャリ約45g)という記述をまとめる解説があります。
(出典は江戸風俗記録『守貞漫稿』)

おそらくですが、現在のような繊細な味の寿司ではなく、甘く、塩辛いほどの濃い味だったのではないか?と個人的には想像しています。

寄生虫のリスクを分散させるためにも酢に漬けるというのは重要な過程だったはずですから、現代よりもより長く酢漬けされていたものも多かったでしょう。

江戸の定番タネ”という実像

当時の文献・図版が示す“定番タネ”のレパートリーはかなりはっきりしています。

  • 『守貞漫稿』(1853)に描かれた握りのラインナップ
    玉子焼、コハダ、アナゴ甘煮、白魚(干瓢で巻く)、海老(車海老・そぼろ)、マグロ刺身(多くはヅケ)など。
  • 東京湾(江戸前)ならではの“地のタネ”
    ハマグリ、アナゴ、コハダ、クルマエビが代表例。塩締め・酢締め・醤油漬け(ヅケ)・湯がき・焼きといった前処理が必須
  • 穴子×煮詰め(ツメ)の古典
    江戸前のアイコンである煮アナゴ+濃い“煮詰め”は、江戸湾の資源と屋台調理の合理性が結びついた典型。
  • マグロの扱い
    まだ脂(トロ)より赤身(ヅケ)が主役。現代と評価軸が逆転していたことが多い。ラインナップ図版にも「マグロさしみ(=赤身)」が明記。

ぜひ当時の魚で、当時の職人さんの握り、食べてみたいものですよね。

変わったのは舌か、魚か、経済か

では今日の本題、寿司の味はなぜ変わったのか?
一つはもちろん筆者の舌が肥えてきたというのもあるでしょう。
やはり、10代20代で新しい食に触れて感動することはあるけど、もう30代も後半になってくると、『食べる』で感動することはほとんどなくなってきます。

そういった感動を抜いたとしても筆者は確実に寿司の味は落ちていると感じるわけですが、ここでただ『まずい』と批判するだけなら意味のないコラムになってしまいますから、実際に味が落ちていると仮定して、なぜ落ちたのか?を考察してみましょう。

海が変わり、魚の“中身”が変わる?

価格表のない高級寿司屋の大将に話を聞いてみると、海水温の上昇について言及されていました。
実際海水の温度は上がり、しっかり寒くならないから脂が乗ってこない・・・というのはあるようです。

当然うまい食べ物というのは、基本軸として脂と炭水化物タンパク質の組み合わせがあり、寿司は非常に効率的にこの三つ巴が接種できますし、脂が多少多い方が美味しいと感じてもらいやすいでしょう。

実際、海水温度の上昇や酸性化は、魚の脂質組成やうま味前駆体(遊離アミノ酸、核酸関連物質)に影響を及ぼし、近年の研究では、環境変化が栄養・官能(味と香り)品質に波及し得るという結果も出ています。

少なくとも“海そのものの味が揺れている”という前提は、寿司の設計に重くのしかかっているでしょう。

物流と大量化が、寿司の“時間”を変える

マグロ流通の歴史を振り返れば、1960年代以降の超低温冷凍(-60℃級)技術が、築地(現・豊洲)を中心とする“生鮮—即日”の時間設計を根本から変えました。

港に揚がり即座に競る、から、洋上・海外で凍結し、世界を回って戻る、へ変わります。

大将もこのマグロ漁の話はされていて、マグロの漁は船長さんだけ日本人であとはベトナム、中国と様々なスタッフが入れ替わり立ち替わり働いているそうで、船長だけは4年間船の上で生活をしているそう。
そこで急速冷凍し、海上で輸送船に積み替えを行い流通しているという話を聞きました。

マグロは基本的に冷凍で上陸するというのが現代では常識だそう。
もちろん必ずしも悪ではなく、寄生虫リスク管理や品質の平準化に寄与してきました。

しかし「いつ獲れ、いつ寝かせ、いつ切るか」という寿司の時間芸術は、超低温の“凍結時間”に包摂されやすい。
結果、どんな環境で解凍するのか、どんな方法で解凍するのか。
取り扱いの見極めがやはり難しくなっているのではないだろうか。

“まずさ”の正体3選

海の現在とレシピの過去
同じ魚名でも、中身(脂・香り・水分活性)が違う季節や海域の“現在”に対し、店側の設計がアップデートされていない?

日本の職人技は確かに素晴らしいし、飯炊き10年と言われる寿司の世界は非常に奥が深いものがあると思います。
ただし、頑固さが邪魔してしまって時代の流れにアップデートしにくいというのは確実にあるような気がします。

筆者も寿司の業界ではなく昭和系親方のいる工房で芸術活動をしたことがありますが、やはり親方に意見なんてありえない話です。
現代はこういうのがいいみたい、こういうのにしてみたらどうか?などの感性豊かで頭の柔らかい若年層の意見を聞いてもらえない風潮がどうしてもあります。

もちろんこの道50年のベテラン職人さんにしかわからない感と技術も大切ではありますが、歳を取れば取るほど変化を恐れるようになります。

変化しにくい日本人特有の年功序列的風潮が食材の取り扱いに関するアップデートを妨げているような気がします。

インバウンド需要
大阪の老舗寿司屋に関しては、どうしてもこのインバウンド需要が影響していると感じました。

正直、モノホンの寿司を提供しなくても全然余裕でやっていける・・・というお話。
それはそうだと思います。

昔は地元の人で賑わっていた店内の8割は外国からの観光客に変わり、行列をなしています。

寿司はやっぱり文化遺産ですから、どこのエリアでも、チェーン店でも、インバウンド需要は満載で、日本人の舌にそこまで忖度する必要はなくなったというのも確実にあるような気がしています。

飯炊き10年
もうそれこそ10年くらい前になるでしょうか?
インフルエンサーの堀江貴文さんが、「寿司の修行に10年とかばかじゃねえの!?」で話題を呼びました。
今や寿司の専門学校で半年ほど知識を詰め込んだらそれで開業して、海外なんかでバカバカ稼げるじゃん!というやつ。
すごーーーくわかります、でも筆者はさすがに芸術家ですから、賛同はできません。
効率は確かに悪い、合理的ではない、それはわかります。
でも人間はお金を稼ぐために生まれてきたわけでもないですし、効率よく人生を過ごすために生まれてきたわけでもない。
飯炊き10年という時間軸そのものの合理性を問うのではなく、その背景にある哲学性が、芸術的な寿司を生むと信じたいところです。
この寿司の修行に10年とかばかじゃねえの!?は、音楽の世界でもよく表れていて、やはり昨今の流れとしてコスパに加えてタイパというのが重視されるようになってきています。
芸術活動をしている上でタイパを重視するというのは、やはり言葉を選んでいうと最悪です。

私たち芸術家は無駄を創造しているわけですから、本末転倒なわけです。
ピアノの修行に50年とかバカじゃねえの?と言われるでしょうが、それは確かに必要なんです。
もしかすると影響力のある堀江さんの寿司の修行に10年とかばかじゃねえの!?発言によって、じわじわバタフライ効果的に寿司のクオリティーが落ちていっている・・・なんてことはないのだろうか?

結論

「寿司がまずくなった」の中には、海が変わり、流通が変わり、私たちの食生活と価値観が変わったという軸の未定も重要です。

江戸前寿司時代と同じ処理ではダメなのは素人でもわかる通り、“昔と同じ設計”では美味しさに届きにくくなってしまっているというのが、本質的な部分だと感じます。

戦後から現在にかけて、特に2000年代に入り、食べるを含めた文化的な価値観や概念は電光石火で変化してきました。
筆者も音楽業界の流れに関しては、とにかくアップデートに意識を向ける、、、それだけで精一杯なところがあります。
でも、職人業界の特に徒弟制度(寿司屋でも少なくなってきていると思います)の世界ではアップデートは行いにくい風潮がある、それが今の味の衰退に直結しているのではないかと思うわけです。

寿司の哲学は「素材の現在を編集する」こと。
ならば、海の現在—気候、資源、養殖、物流—を正面から見据え、カウンターの上の一貫に翻訳し直す。
それが、これからの“うまい寿司”の作り方、そして飯炊き10年の中でみていくべき哲学なのではないだろうか?

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