川上音二郎一座とパリ万博:世界に広がったジャポニスム

明治期の日本演劇に革命をもたらした人物、川上音二郎

彼が率いた「川上一座」は、1900年のパリ万国博覧会に参加し、世界を驚かせました。
この記事では、川上一座の活躍と、発見された貴重な録音、そしてヨーロッパに広がったジャポニスムとの関わりについて、徹底的に解説します。

北海道移住ブログのカテゴリーに入れていますが、音楽家として残しておきたくここに記載します。

川上音二郎とは?

川上音二郎(1864–1911)は、自由民権運動の演説家から身を起こし、演劇界へ転身した異色の人物です。

彼の代表作は庶民に支持された「オッペケペー節」。

社会風刺を込めた歌詞と軽快なリズムは、明治日本の大衆文化を象徴する存在でした。

妻であり女優の川上貞奴とともに、一座を率いて国内外で公演を重ね、日本の演劇を国際舞台へ押し上げました。

  • 1864年(元治元年)
     福岡県博多に生まれる。幼少期から芝居好きで知られる。
  • 1880年代前半(青年期)
     自由民権運動に参加。演説活動の中で風刺歌「オッペケペー節」を広め、大衆的人気を得る。
  • 1891年
     女優・川上貞奴と結婚。以後、夫妻で「川上一座」を率いる。
  • 1893年(明治26年)
     アメリカ公演を敢行。サンフランシスコなどで歌舞伎風の演劇を披露。
  • 1899年(明治32年)
     一座を率いてヨーロッパへ渡航。ロンドンやニューヨークでも興行。
  • 1900年(明治33年)
     パリ万国博覧会に出演。ルイ・フラー劇場で「芸者と騎士」などを上演し、欧州で大成功を収める。
  • 1901年以降
     帰国後、近代的な演劇改革を進める。新派劇の発展に寄与。
  • 1911年(明治44年)
     大阪で病没(享年47歳)。

パリ万博での大成功

1900年のパリ万国博覧会は、19世紀の集大成であり、新しい世紀の幕開けを祝う壮大な催しでした。

会場には50を超える国々が集い、科学技術から美術工芸に至るまで、人類の成果を競うように披露されました。

エッフェル塔が建てられた1889年万博に続き、今度はグラン・パレやプチ・パレといった建築群がパリに生まれ、街全体が「世界文明の首都」として華やかに彩られます。

そこに、日清戦争の勝利を経て、列強の一員として認められつつあった日本も参加。

日本政府は陶磁器、漆器、絹織物などの工芸品を出展し、西洋の審美眼を満足させる精緻さを誇示。

アール・ヌーヴォーの流行と相まって、日本美術は芸術家たちの想像力をかき立て、浮世絵の影響を受けた作品がヨーロッパに溢れ出しました。

その一方で、工芸や静的な美術だけでは表現できない「生きた日本」を示す存在、それが川上音二郎率いる一座であります。

川上一座は政府派遣の公式団体ではなく、むしろ興行主として自らの力でヨーロッパの舞台に立った。

音二郎の妻であり女優の川上貞奴を中心に、一座はルイ・フラーの劇場で公演を開始。

歌舞伎の要素を取り入れた人情劇、華やかな舞踊、そして切腹シーンを売りにした舞台は、連日満員となり、万博のセンセーションとまで評されました。

フランスの観客は「浮世絵が動き出したかのようだ」と驚嘆し、芸術家トゥールーズ=ロートレックや若き日のピカソもその舞台に魅了されたといいます。

貞奴は「東洋のサラ・ベルナール」と称えられ、芸術と娯楽の狭間でジャポニスムをさらに深める存在となった。

こうした川上一座の成功は、同じ時期にヨーロッパへ渡った他の日本人とも響き合っていました。

たとえば夏目漱石はロンドン留学の途上でパリ万博を訪れ、圧倒的な文明の展示に衝撃を受けた記録を残しています。

また美術思想家の岡倉天心はヨーロッパを歴訪し、日本美術の精神性を説いていた。

黒田清輝や藤島武二ら画家たちも、同時代にフランスで研鑽を積み、近代日本絵画の基盤を築きつつあった。

知識人や芸術家が思想や美術の文脈で日本を紹介する一方、川上一座は大衆的な舞台芸術を通じて、日本を「体験」として届けました。

19世紀末、列強の帝国主義が激しく競い合う国際社会において、日本はまだ「新参の帝国」であり、自らを文明国として売り込む必要があったわけです。

パリ万博はそのための絶好の舞台となりました。

静的展示と動的公演、知識人の言論と庶民的な芸能、それぞれが異なる形で「日本の近代」をアピールし、欧州社会に鮮烈な印象を残しました。

万博参加の背景

1899年にアメリカ公演を経た一座は、翌1900年、パリ万国博覧会に参加。

女優・舞踊家でありアール・ヌーヴォーの象徴的存在だったルイ・フラーがプロデュースする劇場で公演を行いました。

上演内容と反響

  • 上演は約369回、1日2〜3公演という驚異的なスケジュール
  • 代表演目『芸者と騎士』『袈裟御前』などは200回以上上演され、連日満員御礼
  • 切腹(ハラキリ)シーンを宣伝に用いるなど大胆な演出で大評判

現地メディアは「浮世絵が動き出したようだ」と絶賛。

貞奴は「東洋のサラ・ベルナール」とまで称えられ、西欧の芸術家たちも熱狂しました。

ピカソやトゥールーズ=ロートレックら芸術家も観劇した記録が残っています。

発見された幻の録音

1997年、ロンドンのEMIアーカイブで、川上一座のパリ公演を録音したSP盤(29曲)が発見されました。

内容には「オッペケペー節」も含まれ、日本の演劇と音楽の現存最古級の録音資料とされています。
現在はCDとして復刻され、私たちも当時の歌声を聴くことができます。

エンジニア:Fred Gaisberg(フレッド・ガイスバーグ) 当時マイクロフォンはなく、ホーンの細い端に密閉室+丸形ダイアフラム(雲母/ガラス)。

振動はリンク機構で切削針へ伝達、ディスク直接切削。

レーベルはGramophone & Typewriter Company**(英グラモフォン系)でした。

ちなみに翌年の1901年には、ベルリンで、民族音楽研究のベルリン・フォノグラーム・アーカイヴが蝋管(シリンダー)で川上一座を記録しており、パリ(ディスク)とベルリン(シリンダー)で機材が異なることが一次研究で対照されています。

川上一座とジャポニスム

川上一座の存在は、単なる「日本芸能の紹介」にとどまりませんでした。

  • モダンダンスの祖・イサドラ・ダンカン、ルース・サン=ドニらに影響
  • 作曲家プッチーニが『蝶々夫人』に参考にしたとされる
  • ヨーロッパの舞台芸術に「日本趣味=ジャポニスム」の新しい側面を加えた

つまり川上一座は、日本芸能を「生きた体験」としてヨーロッパにもたらし、西洋文化に強い衝撃を与えたのです。

まとめ

  • 川上一座は1900年パリ万博で大成功を収め、日本演劇を世界に知らしめた
  • 公演の録音が奇跡的に発見され、今も聴くことができる
  • 西欧の芸術家・作曲家に強い影響を与え、ジャポニスムの重要な担い手となった

川上音二郎の「オッペケペー節」は、単なる流行歌ではなく、世界と日本をつなぐ「文化のかけ橋」として今も甦り続けています。

実は夏目漱石なんかもパリ万博に参加していました。

ここからはおまけでパリ万博に参加した有名な日本人を紹介します。

1900年パリ万博|日本人参加者(シンプルボックス)

1900年パリ万博|他にフランスへ渡った日本人

夏目漱石

1900年、ロンドン留学の途上でパリ万博を見学。文明と大衆のエネルギーに衝撃を受け、その後の文明批評的な視線に影響を与えた。

岡倉天心

美術思想家として欧州を歴訪し、日本美術の精神を紹介。工芸や絵画の流行(ジャポニスム)に思想的な厚みを与えた。

黒田清輝・藤島武二 ほか

当時フランスで研鑽中の画家たち。パリ画壇との接点を通じて近代日本絵画の基盤を形成し、アール・ヌーヴォーの潮流とも共鳴した。

政府・実業界の関係者

日本館の展示運営や工芸品の出品に携わった官僚・外交官・商人。陶磁器・漆器・絹織物を通じて輸出振興と国威発揚を担った。

川上一座との対比:政府主導の展示が工芸品や美術を示したのに対し、川上一座は劇場公演を通じて「動く日本」を体験として披露。知識人や画家が理念・作品で橋渡ししたのに比べ、大衆娯楽として直観的に訴求し、ジャポニスム熱をより実感的に伝えた。

朝比奈幸太郎

音楽家:朝比奈幸太郎

神戸生まれ。2025 年、40 年近く住んだ神戸を離れ北海道・十勝へ移住。
録音エンジニア五島昭彦氏より金田式バランス電流伝送 DC 録音技術を承継し、 ヴィンテージ機材で高品位録音を実践。
ヒーリング音響ブランド「Curanz Sounds」でソルフェジオ周波数音源を配信。
“音の文化を未来へ”届ける活動を展開中。