北海道に移住してそろそろ1ヶ月になる。
買い物のペースはまだ掴めないものの、日常生活に必要なものの確保をどこでするのか?
そして移動手段についてのまとめなどは、ある程度整ってきた。
2025年8月12日時点で未だRTK測位用の基地局は未だFIXせず、株式会社ジオセンスのCEOとともにデバッグをしている日々を送っていますが、これは解決するまでやめませんので、皆様がこの記事を検索で見つける頃には足寄町にRTK測位用の基地局が誕生しているはずであります。
というわけで、今回は足寄町について調べてみました。
歴史や風土
足寄町(あしょろちょう)は北海道東部、十勝総合振興局の北東部に位置する町で、面積は約1,408平方キロメートルにもおよび、町村としては日本一の広さを誇ります。
町域は北を陸別町、南を本別町、西を上士幌町、東を阿寒山地を隔てて釧路市・白糠町と接し、中央部を利別川が南北に流れています。
陸別町といえば、日本一寒くなる場所であり、さすがに寒さに強い北海道の人々も、陸別は寒い・・・と震えるような場所。
東部には活火山の雌阿寒岳(標高1,499m)や阿寒富士、フップシ岳など山岳が連なり、西部から北部にかけても石狩山地の山並みが続く一方、中央~南部は利別川に沿う河谷平野となっており、この河谷に足寄市街地が開けています。
町の約8割は山林が占める豊かな森林地帯で、湖沼や河川など多彩な自然環境に恵まれています。
町内には神秘的な色合いを見せるオンネトー湖(五色沼)や、雌阿寒岳山麓に湧く天然の温泉滝「オンネトー湯の滝」などの景勝地もあり、こうした貴重な自然を目当てに訪れる人も少なくありません。
オンネトーは無料のキャンプエリアも開放されており、キャンパーにとっては最高の立地であると言えます。
気候は内陸の大陸性気候で寒暖差が大きく、冬季は氷点下25℃前後の厳しい冷え込みが珍しくなく雪も多い一方、夏季は真夏日・猛暑日になることもあります。
こうした自然環境を活かし、町では農林業が主要産業として営まれています(詳しくは後述)。
足寄町の名前はどこから?
町名の「足寄」は、アイヌ語の「エソロペッ(esoro-pet)」(川沿いを下る・川)に由来するとされます。
その名の通り、古くは釧路方面から阿寒の山越えを経て現在の足寄川沿いに十勝・北見方面へ抜ける経路が存在しており、この地が内陸と沿岸とを結ぶ一つのルートとなっていたようです。
アイヌ文化時代の足寄
開拓が始まる以前、足寄一帯はアイヌの人々の生活圏の一部でした。
利別川がちょうど東西の文化圏の境界を成しており、明治初期に北海道が11国86郡に区画された際も利別川が十勝国(西側)と釧路国(東側)の国境と定められた経緯があります。
この川のアイヌ語名は「トシ・ペッ」(縄・川)で、まさに「境界」を意味していたと考えられています。
松浦武四郎の探査記録にも「クスリ(釧路)領アショロ村」との記述があり、明治以前から足寄という地名と集落がアイヌの世界に存在していたことが窺えます。
アイヌの人々はこの地で川や森の恵みに依拠した狩猟・漁労採集の暮らしを営み、ニカルシピラ(「梯子のある崖」の意)と呼ばれる利別川沿いの断崖に砦(チャシ)を築いていたとの伝説も残っています。
その昔、他地域(伝承によって日高あるいは厚岸のアイヌ)から攻め込まれた際、この砦の老者が葡萄蔓で編んだ梯子を崖にかけて逃れたため敵軍を欺くことができた…という興味深い故事が語られています。
また別の伝説では、侵入者たちが巨大なフキの葉をシュノーケル代わりに咥えて川潜りし、不意打ちで集落を襲ったという戦法が伝えられており、後述する特産のラワンブキ(フキ)もこのように物語に登場します。
これらのアイヌ伝承は足寄の地にまつわる歴史ロマンとして語り継がれています。
本州からの開拓民
明治時代に入り北海道が日本領として本格的に開拓されると、先住のアイヌ民族の生活も大きな転機を迎えます。
明治政府は従来の狩猟採集中心の生活を改めさせる政策を進め、足寄地域でも明治16年(1883年)に当時の根室県により中足寄(現在の足寄町中心付近)でアイヌの人々への農業指導が実施されました。
これは飢えや生活苦に対する救済策でもあり、開拓使(北海道開発当局)によって建設された指導施設に周辺コタンの人々を集め、稲作などの農耕を教えたものです。
明治18年(1885年)以降も札幌県による同様の指導が十勝各地で行われましたが、行政出張所による保護・監督が1889年に廃止されると、多くのアイヌの人々は慣れない農業から離れていったといいます。
以後、足寄でも和人社会への同化が進み、固有の文化は急速に姿を消していきました。しかし近年ではアイヌ文化の保存・継承への関心も高まり、地域の博物館でのパネル展開催や伝統工芸体験イベントなども行われています。
ラワンブキについても「フキの葉の下には幸運を呼ぶ神様コロポックルが住む」というアイヌの言い伝えがあり、そうした先住民の文化と結びついた地域資源として見直されています。
明治期の開拓と入植
明治維新後、北海道への本格的な和人入植が始まると、足寄の地にも少しずつ開拓の手が伸びました。
明治12年(1879年)、細川繁太郎・エン夫妻が白糠から山越えで中足寄に移住し、足寄における和人定住の第一号となりました。
同年には池田町(当時の蝶多[ちょうだ])に武田菊平が、帯広近郊(オベリベリ)に馬場猪之吉が入植するなど、十勝内陸への移民が各地で相次いだ時期でもあります。
明治期の北海道では屯田兵制度による士族授産も行われましたが、足寄地域への直接の屯田兵配置はなく、開拓は主に民間の移住者たちによって担われました。
なかでも明治30年(1897年)には、本州からの大規模移民を受け入れる計画として「函館農場」が設立されました。
渡島国木古内村(函館近郊)の旧村総代であった鈴木勝太郎らが中心となり、函館の商工業者から資金を募って開拓会社を組織し、十勝北部の未開地に大規模農場を開く計画です。
農場予定地は本別原野から足寄太原野(現在の足寄町北部、足寄市街地一帯を含む)にかけて広がる約967町歩(≒960ヘクタール)の広大な土地で、明治31年(1898年)春、福井県出身者を中心とする第一回移民団36戸・116人が現地に入植しました。
彼らは飲料水確保のため利別川沿いに開拓小屋を構え、湿地帯に生い茂るヤチダモ林やヤチボウズ(泥炭地の草塊)と悪戦苦闘しながら土地の開墾を進めました。
初年度の9月には大洪水に見舞われ畑作が壊滅する困難もありましたが、農場経営者による救済も受けつつ生計を立て直し、以後も毎年十数戸規模の移民が入植を継続しました。
明治33年(1900年)には宮城県から34戸・福井・岐阜両県から20戸の大移住団も到来するなど、短期間で人口が増加し、明治43年(1910年)までに約700町歩が耕地化されるという記録的なスピードで開拓が進んでいます。
こうした函館農場の成功により、足寄から本別にかけての一帯に農村集落の礎が築かれました。
現在の足寄市街地も、函館農場が開墾した区画の一部を町区画として解放して形成されたものです。
開拓当初こそ湿地や洪水に悩まされた土地でしたが、その後の治水や土壌改良によって農耕地として整備されていきます。
函館農場の小作人たちは契約満了後に自作農となり、やがて彼ら開拓移民が足寄地域の農業経営の中心を担っていきました。
行政上の整備も進み、明治41年(1908年)には足寄に「足寄外3村戸長役場」(戸長役場:現在の役場の前身)が置かれました。
当初は足寄村のほか周辺の螺湾村・利別村・淕別村を管轄する役場でしたが、のち大正8年(1919年)に利別村と淕別村が分離(淕別村は後の陸別町)し、残った足寄村と螺湾村が大正12年(1923年)に合併して二級町村制を施行しました。
この「足寄村」は現在の足寄町東部(旧釧路国側)の範囲に相当します。
一方、町域西部(旧十勝国側)では、もともと十勝管内の本別村に属していた上利別・大誉地・稲牛・斗満といった集落群が、大正10年(1921年)に分村して**「西足寄村」となりましたja.wikipedia.org。西足寄村は昭和25年(1950年)に町制施行し西足寄町となります。
こうして行政区画上は東西に別れていた足寄地域ですが、昭和30年(1955年)4月1日、足寄村と西足寄町が合併し現在の「足寄町」**が発足。
新町役場は、旧二町村の境界であった利別川に架かる両国橋付近(現在地)に設置されました。
この「両国橋」という名称は、まさに二つの国(十勝国と釧路国)を繋ぐ橋であることに由来しており、歴史的な地勢を今に伝える象徴となっています。
交通インフラ
交通インフラの整備も明治末から大正期にかけて進みました。
明治43年(1910年)には池田町と陸別町を結ぶ鉄道(のちのJR池北線→北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線)が開通し、足寄にも駅が設置されました。
銀河線は現在廃線
現在は廃線となっており、当時の足寄駅は現在道の駅的な存在になっています。

鉄道の開通によって農産物や木材の出荷が容易になるとともに、本州からの移住者や旅人の往来も活発化しました。
また同1910年には足寄に陸軍省の軍馬補充部出張所(軍馬育成施設)が置かれています。
これは日露戦争後の軍備拡充策の一環で、広大な十勝平野を良馬の生産地とするため各地に牧場が設けられたものです。
足寄でも軍用馬の育成が行われ、以後も農耕や運搬に馬が重用されました。
大正3年(1914年)には雌阿寒温泉が開湯し、炭酸水素塩泉の湯治場として賑わい始めます。
大正末期までには行政区画も定まり、道路網の整備も徐々に進行して、足寄は東部十勝の拠点集落へと成長していきました。
戦後から現代までの歩み
太平洋戦争終結後、足寄町にも新たな発展の時期が訪れます。
戦後開拓ブームの中で、引揚者や本州出身の開拓農家が入植して農地開発が行われ、畑作地帯の拡大が進みました。
また1950年代には電源開発株式会社(Jパワー)による大規模なダム・水力発電所の建設計画が始動し、多くの労働者が全国から集まりました。
町の南方、利別川上流に**足寄ダム(活込貯水池)**が建設され、昭和32年(1957年)にJパワー足寄発電所が運転開始しています。
人口推移について
Date (基準日) | Population | Source type | Notes |
---|---|---|---|
1955-10-01 | 19,191 | Census | 昭和30年国勢調査。 |
1960-10-01 | 19,385 | Census | 昭和35年国勢調査(この時期が国勢調査でのピーク)。 |
1962-03-31 | 20,027 | Resident Register | 戦後ダム工事従事者等の転入で住基ベースの史上ピーク。 |
1970-10-01 | 15,172 | Census | 高度経済成長期以降の減少傾向が顕在化。 |
1975-10-01 | 13,525 | Census | |
1980-10-01 | 12,667 | Census | |
1985-10-01 | 11,586 | Census | |
1990-10-01 | 10,289 | Census | |
1995-10-01 | 9,522 | Census | |
2000-10-01 | 8,871 | Census | |
2005-10-01 | 8,317 | Census | |
2010-10-01 | 7,640 | Census | |
2015-10-01 | 6,990 | Census | |
2020-10-01 | 6,563 | Census | 令和2年国勢調査。 |
2024-01-01 | 6,172 | Resident Register | 住基(外国人含む)。 |
2024-12-31 | 5,952 | Resident Register | 広報掲載の令和6年12月末現在。 |
2025-03-31 | 5,859 | Resident Register | 広報あしょろ 令和7年4月号「3月末の住基」。 |
2025-06-30 | 5,835 | Resident Register | 月末現在(要出典注:二次まとめ)。 |
2025-07-31 | 5,836 | Resident Register | 町公式サイト掲示の最新値(現時点)。 |
広大な面積ゆえに地域内の過疎化・高齢化や公共交通の維持などの問題に直面しています。
2006年には地域を縦断していた鉄道路線(ふるさと銀河線)が廃止となり、代替バス交通の確保や高速道路(道東道足寄IC開通)による物流確保などの対応も取られています。
町は平成以降、「足寄町まち・ひと・しごと創生総合戦略」を策定して移住定住の促進や地域産業の振興に力を入れており、広大な地域資源を活かした持続可能な町づくりに取り組んでいます。
地域性・風土性(文化・産業・特産)
足寄町の基幹産業は現在も農業・畜産・林業です。
広大な十勝平野の一角として開けた農地では畑作が盛んで、甜菜(ビート)や小麦を中心にジャガイモ、インゲン豆など多様な作物が栽培されています。
特に甜菜は製糖原料として重要で、明治時代から昭和期にかけて町内各地でビート栽培が行われ、隣接する本別町などにある製糖工場へ原料が出荷されてきました。
また畜産では酪農と肉牛肥育が行われており、町内の牛の飼養頭数は乳牛・肉牛合わせて1万頭以上にのぼります。
頭数では肉用牛が多いものの、乳製品向け生乳の生産額が高く、酪農が経済を下支えしています。
戦後しばらくまで農耕馬の飼育が盛んでしたが、機械化の進展に伴い馬産は次第に縮小し、現在では観光乗馬など一部を除き行われなくなりました。
それでも町内には馬産の歴史を伝える施設や、農家によるホーストレッキング体験などもあります。
また林業も重要な地場産業で、町域の約8割を占める山林からトドマツ・カラマツなどの用材生産が続けられています。
林業は開拓初期から現在まで町の経済を支える柱の一つであり、素材生産のみならず木材加工(二次製材)分野の企業も立地しています。
良質な生乳を活かした地域ブランドのチーズ作りも盛んで、あしょろチーズ工房やしあわせチーズ工房といった小規模チーズ工房が地元産牛乳を用いた手作りチーズを製造しています。
足寄産チーズは全国コンクールで入賞経験もあり、モッツァレラやラクレットチーズなど多彩な商品が地域の新たな特産品となっています。
酪農の副産物である牛糞を活用した堆肥やペレット燃料の生産など、循環型産業の取り組みもみられます。
加えて、町内には電力関連産業として前述の水力発電所(Jパワー足寄発電所の他、芽登第一・第二発電所)が稼働しており、地元雇用や企業税収に寄与しています。
近年は再生可能エネルギー施設の誘致にも意欲を見せており、広大な町有地でのメガソーラー発電計画なども検討されています。
食文化・特産品
食文化は、十勝地域らしく乳製品や小麦を使った料理、そして山菜や川魚など自然の恵みを活かした素朴な料理が特徴です。
なかでも**「ラワンぶき」**は足寄を代表する食材で、日本一大きなフキとして広く知られています。
螺湾川沿いの限られた湿地に自生するこのフキはアキタブキの変種で、成長すると高さ3メートル、茎の太さは10センチ以上にも達します。
その巨木のような姿はトトロが葉を傘にするアニメのワンシーンを彷彿とさせるほどで、2001年には北海道遺産にも選定されました。
ラワンブキが巨大化する要因は完全には解明されていませんが、一説には突然変異による品種と、足寄盆地特有の気候(昼夜の寒暖差)や火山灰質の土壌、雌阿寒岳麓から流れ出る螺湾川の水質など複合的な環境要因が関係していると考えられています。
その希少性ゆえ苗や種子の町外持ち出しは禁止されており、JAあしょろでは乱獲や河川増水による自生株減少を防ぐため圃場での計画栽培も行っています。
ラワンブキは毎年6月上旬~7月上旬に収穫され、みずみずしく柔らかな食感とアクの少なさが特徴です。
筋が柔らかいため下処理もしやすく、煮物・炒め物・漬物など様々な料理に利用されます。
特にシャキシャキとした歯ざわりを活かした炒め煮や、太い茎をそのまま器に見立てて挽肉を詰めた創作料理(ラワンブキの肉詰め)など、地元ならではのレシピも生み出されています。
近年では塩蔵処理や真空パック技術により長期保存・広域出荷も可能となり、「でかぶき漬け」(ラワンブキの醤油漬け)といった土産品も人気です。
ラワンブキの収穫期には前述の祭りも開かれ、採れたてのフキ料理が提供されるなど町全体で特産を盛り上げています。
さらに足寄町はイチゴの栽培でも知られ、ハウス栽培された甘みの強いイチゴを使ったジャムやスイーツも特産品となっています。
山菜ではラワンブキの他にウドや行者ニンニク、秋にはキノコ類も豊富で、家庭の食卓に季節ごとの山の幸が登場します。
川魚ではヤマベ(ヤマメ)やワカサギが獲れ、塩焼きや天ぷら、甘露煮などで親しまれてきました。
冬の寒さを利用した**凍り豆腐(高野豆腐)**作りもかつては各家庭で行われ、保存食として重宝されましたが、現在では作る家も少なくなっています。
最後に、足寄町の地域性を語る上で忘れてはならないのが郷土愛と開拓精神です。
厳しい自然環境の中で先人たちが築いてきた歴史を振り返ると、アイヌの時代から和人入植、戦後開拓と、それぞれの時代ごとに知恵と工夫で困難を乗り越えてきた姿が浮かび上がります。
足寄という地名には「川沿いを下る」という意味が込められていましたが、その名の通り時代という大河の流れの中で地域は形を変えつつ下流(未来)へ進んできました。
現在、人口減少や高齢化など課題は多いものの、足寄町は豊かな自然と独自の風土を次世代に引き継ぐべく、地域ぐるみで知恵を出し合い前向きに歩みを続けています。
足寄の大地に息づくこの精神こそが、何よりもこの町の誇る「地域性・風土性」そのものと言えるでしょう。
住んでみた実感
北海道といえば、例えば夕張市が破綻したり、北見市(かなり北の方)も財政破綻寸前であるといわれていたり、人口の維持は本当に難しいのだと思います。
でも例えばビアガーデンの様子なんかを見ると、大盛況?にも感じますが、車で30〜40分ほどの本別や陸別、また北見に引っ越した元足寄町の人もかなり多いのだとか。
足寄町に住んでいますという現役の数は確かに人口推移を見るように5000人程度なのかもしれません。
加えて町で唯一の自転車屋さんである高橋サイクル。
ここも2025年時点では店主が高齢となっているのもあり、商品のラインナップは中古車が一台、新車が一台とさすがに稼働しているとは言いにくい状況であります。
【自動運転技術の今】北海道の田舎町に引っ越してきて乗り物を考える
元足寄駅周辺には飲食店もそこそこ立ち並びます。
まだ数件しかお邪魔していませんが、料理のクオリティーはというと、プロと家庭の境目がわからないレベル。
商店街や、飲食店の周囲も廃墟となっているような場所が多く、住居エリアも廃墟または準廃墟が多い。
また、引越してきて1ヶ月だが、ご近所で高齢のため天寿を全うした方を二人耳にする。
拙宅の周辺でも鳩の棲家になっている住居が数件ある。
おまけに足寄町はゴミの出し方が多分だけど世界一、少なくとも間違いなく日本一難しく複雑である。
もう書けばキリがないので、すべては書かないが、分別に加えてすべてのゴミは洗ってからじゃないと本当に持っていってくれないのであります。
このゴミ問題は、実際足寄町から転出する理由にもなっているのは明白で、一人、転出していった人をしっていますが、「とりあえずゴミの分別から解放される」と言っていました。
足寄町を含め、周辺の本別や陸別、池田町付近も基本的にはサツドラ(札幌ドラッグ)とツルハ(いずれも基本セットで)に加えて、フクハラというCGCグループ系統のスーパーがあり、Amazonなどと併用すれば、基本的に生活には困らないようにはなっています。
いつまで足寄町に住むかは未定ですが、筆者はたまたま親戚をたどって移住できましたが、本州から自力で移住するのはなかなか難易度が高いと言えるわけです。
AI系Youtuberや、ネットだけで完結してる人は移住先として検討してみてもいいかもしれません。
実際陸別などは、天体観測地域としても有名で、人口の明かりが全くないエリアが多いです。
とはいえ、おそらく10年20年スパンでみたときに、仕事という概念は大きく変革しているでしょうから、どこに住むか?に対して仕事を考慮しなくていい時代がやってきます。
そんな時、PRや魅力次第ではまた人口が復活しはじめる未来もありえるのではないでしょうか。
まずは、ゴミの処理問題を解決することが足寄町の未来を作る架け橋となるのかもしれません。

音楽家:朝比奈幸太郎
神戸生まれ。2025 年、40 年近く住んだ神戸を離れ北海道・十勝へ移住。
録音エンジニア五島昭彦氏より金田式バランス電流伝送 DC 録音技術を承継し、
ヴィンテージ機材で高品位録音を実践。
ヒーリング音響ブランド「Curanz Sounds」でソルフェジオ周波数音源を配信。
“音の文化を未来へ”届ける活動を展開中。