今日はコラム回!
常識を手放してみない?
アダムスファミリーという鏡
「アダムスファミリー」というと、古い映画の印象が強いですが、Netflixの『ウェンズデー』によって再び脚光を浴びています。
彼らは「お化け一家」と呼ばれていますが、よく観察すると、彼らは「異形の人々」であると同時に、「社会の鏡」でもあるのです。
アダムス家の人々は、私たちが日常で無意識に抱えている「常識」や「正しさ」の価値基準を、軽やかに笑い飛ばしている。
その笑いには、哲学的な問いがあります——「常識とは、誰のためのものなのか?」
生きづらさは「異端の感性」から生まれる
社会で「生きづらい」と感じる多くの人々は、感性が繊細で、他者の声よりも内側の声に誠実です。
芸術家やミュージシャンにその傾向は特に強く、彼らはしばしば「少数派」として扱われます。
しかし、それは欠陥ではなく、「感じる力が強い」という才能の証明でもあります。
アダムスファミリーの人々も同じです。
彼らは“異端”として笑われながらも、他人の評価よりも自分たちの価値観で生きる強さを持っています。
そして芸術家とは、まさにそういう存在であると言えるのです。
集団意識の檻と「正解」からの脱出
社会の中にいると、「こうあるべき」「それが常識だ」といった言葉に囲まれます。
しかしそれは、無意識に人を縛る「見えない檻」でもあります。
哲学者フーコーは、「社会の規範は人間を規律化する装置である」と言いました。
つまり「常識」とは、安心感を与える一方で、自由を奪う構造なのです。
アダムスファミリーのように、正解から逸脱した存在は、この檻を壊して見せてくれる。
「お化け」である彼らこそ、正しさからの自由人なのです。
芸術の本質は「常識の外」にある
アリストテレスは「芸術とは模倣である」と言いましたが、現代の芸術はその逆を行きます。
模倣ではなく、逸脱です。
これはなぜそう言えるのかというと、模倣はAIが・・・完璧にこなしてくれます。
私たち芸術家は人間にしかできない規範と常識を外すという作業をしなければいけません。
もちろんスキルの習得と芸術活動は別物であるというのはいうまでもありませんが、スキルの習得には模倣は必須である!と筆者は考えています。
新しい表現は、いつだって「常識外」から生まれます。
ピカソもショパンも、最初は「理解不能」と言われた。
しかし、彼らの“異端”が時を経て「新しい常識」になる。
アダムスファミリーが教えてくれるのは、
常識の外に立つことを恐れない人間が、文化を前進させるという真理です。
アダムスファミリー的に生きる勇気
もしあなたが、周囲と違うことに悩んでいるなら、アダムスファミリーを思い出してください。
「変わっている」ことは、「見えている世界が違う」ということ。
そこにこそ、芸術の源泉があります。
常識という小さな枠を越えて、あなた自身の「異形の美学」を肯定する。
それが、芸術家として、そして人間としての自由の第一歩なのです。
映画の中で登場する兄(クリストファー・ロイド)。
彼は素直にアダムスファミリーの中に飛び込んで、常識の外にある何かに触れたことによって、新しい世界、そして新しい価値観に歓喜したのです。
実際アダムスファミリーの人々はみんなフレンドリー。
誰かに対して自分たちの価値観と違うからと排除しようとしたりしませんよね。
社会の集団意識と常識は常に隣り合わせで、創造性の破壊に加担します。
でも、みなさんは常識を守って、立派な芸術家になってくださいね!
(冗談ですよ(笑)
ではでは。