【映画:廃用身】在宅介護の今と未来

【映画:廃用身】在宅介護の今と未来

Posted on 2026-05-01 with 【映画:廃用身】在宅介護の今と未来 はコメントを受け付けていません

2026年5月15日に公開される、廃用身。
実は20年も前に書かれた小説だそうで、作家でドクターの久坂部 羊さんの作品だそう。

Youtubeのアベマで久坂部 羊氏ご本人登場のもと、在宅介護や延命に関するテーマを取り上げられていました。

筆者自身も、20代から世代の離れた祖父母の在宅介護をし、今は二人ともお看取りをさせていただきましたが、思うところがたくさんあり、今日徒然なるままに読者の方に考えてみて欲しいと思う。

人の致死率は100%

絶対という言葉はあまり使いたくないし、俯瞰力のない人ほど絶対という言葉を多用する傾向にあるかと思う。

だけど、これだけは今のところ絶対と言っていい領域の一つが人間の致死率であります。

これはもう100%絶対であり、これまで死を達成できなかった人間は存在しないというほどなのであります。

人々はあまりこの絶対の事実を受け入れていないというのが現実なのだと思います。
筆者は今30代後半ですが、すでに終活ははじめており、死の準備は万全ですともいえませんが、ある程度、このまま死んでも焼かれるだけという環境作りを心がけています。

病院の意味と治療と延命

番組内では胃ろうや酸素マスク等登場していました。
少し前ならスパゲッティー症候群という名前で話題になりましたよね。

実はこの延命倫理のお話、先進国と言われるような北欧やヨーロッパのなんというか、いろんな議論が進んでいる国では解決済みのお話だったりします。

北欧という「答え合わせ」の済んだ国々

たとえばスウェーデンでは、高齢者が食事を口から摂れなくなってきたとき、医師はまず本人とその家族に「いよいよ終末期に入りました」という事実を、きちんと正面から伝えます。

そしてその上で、本人の意思を最優先として「どのような最期を迎えたいか」を一緒に考えます。
胃ろうは、作りません。

点滴も、しません。
肺炎を起こしても、抗生剤の注射も原則しません。

「えっ、そんな冷たいことが許されるの?」と感じる方もいるかもしれません。
でも、これは冷たさとは真逆の話なんです。

スウェーデンをはじめとする北欧諸国には、「人間中心のケア」という思想が根底にあって、患者の尊厳を守ることこそが医療の本義であるという共通認識が、社会全体に染み渡っています。

QOL(生活の質)を何よりも重視する人生観が文化として定着しているから、終末期に濃厚な延命医療を施すことは、むしろ患者の尊厳を傷つける行為として捉えられるわけです。

その結果、スウェーデンのほとんどの高齢者は、今暮らしているその場所で、延命されないまま緩和ケアを受けて、まるで草木が枯れるように穏やかに逝きます。

本人が望んでいた、まさにその通りの最期を迎えるのです。

「安楽死」という選択肢と、それを持つ国々

もう少し踏み込んだ話をすると、オランダやベルギーでは、積極的安楽死がすでに合法化されています。

オランダでは2002年から制度が運用されており、「患者本人による熟慮された要請があること」「絶望的で耐えがたい苦しみがあること」「回復の見込みがないこと」「複数の医師によるセカンドオピニオンを経ること」といった厳格な条件のもとで、医師が致死薬を投与することが認められています。

毎年1万6千件以上の安楽死申請があるというのだから、それが特別な選択ではなく、ごく現実的な選択肢として社会に根付いているということがわかります。

ベルギーに至っては、2014年に世界で初めて未成年者の安楽死まで一定の条件下で認めた国でもあります。

スイスは積極的安楽死こそ認めていないものの、医師が処方した致死薬を本人が自ら服用する「自殺幇助」が合法であり、外国人も受け入れることで知られています。

年間1,500人以上がこの方法を選んでいます。

2025年にはイギリスまでも安楽死の法制化に向けて動き始めました。

欧州全体として、「死を選ぶ権利」の議論は着実に前進しているのです。

日本との、埋めがたい溝

では翻って、日本はどうでしょう。

先述の国々との感覚、結構乖離していると感じませんか?
まずそもそもですが、日本人というのは、問題のある義務教育のせいかどうか何かを考えるということができなくなっている・・・という風潮があります。
この記事をここまで読んでいる方は普段からいろんなことを考えている人でしょうし、考えるということを面倒に感じない人たちだと思います。

しかし、エジソンが「人間は考えないということをするためならどんな苦労でもする」と名言を確か残していたように、日本人はさらに、何かについて考えることを極端に避ける傾向があるのは事実。

もちろん死についてや、延命に関して、ましてや安楽死に関して考えることは日常ありません。

日本では長らく、医師が治療方針を決め、患者と家族はそれに従うというパターナリズム(父権主義的医療)が主流でしたし、まだまだそういうパターナリズムが色濃く残っている地方もたくさん、、、あることでしょう。

本人が「もう延命はしなくていい」と意思表示をしていたとしても、それが正式な書面でなければ無視されてしまうこともあります。

そして、筆者は実際に過去長い間在宅介護をしてきて、人生経験の中でそうしたことを目の当たりにした経験もあります。

家族が「とにかく生きていてほしい」と言えば、医師は延命を続けます。
いえ、家族が特に強い希望を出さない限り、自然と延命に向かうというのがこれまた地方では色濃く残っています。
本人の意思より、家族の感情が、そして時に病院の都合(これも闇が深いですが経営のおはなし)が優先されるのです。

胃ろうの数を見るだけでも一目瞭然で、日本は長年にわたり世界的にも突出した胃ろう大国でありつづけてきました。

スパゲッティー症候群という言葉、覚えていますか。
全身に無数のチューブや電極が這い、まるでスパゲッティのようになった状態の患者。
それが話題になったのはもう何十年も前のことですが、実態はそれほど変わっていないなんです。
失われた30年とよく言いますが、日本はそういう意味でも考えるということが国レベルでストップした世界的にも稀有な国であると言えます。

延命治療には最大値で1日数十万円かかるとも言われています。
7ヶ月続けば2,000万円以上の医療費が国に請求されます。
もちろん高額療養費制度があるので家族の実費負担は抑えられます。

日本の医療制度、介護保険制度は素晴らしいものですが、この制度の副作用として家族が延命を希望するという実態も実のところ・・・あるのです。

表面上は「お金がかかっていないから、延命をやめる罪悪感を感じにくくなる」という構造にもなっているわけです。

本人の意思ではなく、制度の作りによって延命が「デフォルト」になってしまっている、、、それが現状。

苦しむのは、いったい誰なのか

ここで筆者が声を大にして言いたいのは、タイトルにした通りです。
無意味な延命治療によって、いちばん苦しむのは患者、すなわち家族なのだということ。

意識もなく、回復の見込みもなく、ただチューブと機械に繋がれて横たわっている「患者」本人が苦しいかどうかは、誰にもわかりません。

わかりませんが、あなたならどうでしょう?
私は嫌です。

筆者の祖母も延命はせず、祖父は96歳まで生きましたが、人生の最後の瞬間まで自分自身で点滴さえも拒否し続けました。

集団の中ではみ出ることを嫌う日本人的性質が、「延命をやめよう」と言い出すことへの恐れ。
「見殺しにするのか」と思われることへの怖さ。
そして、やめてしまったあとに襲ってくる「本当に良かったのか」という後悔。
日本の延命医療が生み出すのは、患者の生命の時間ではなく、家族の感情的な地獄の時間なのだと、筆者は思っています。

介護を経験した者として、誰かの参考になるかもしれないと思い、正直に言います。
お看取りの瞬間は、悲しいけれど、どこかほっとする。
それは愛情の薄さではなく、あまりにも自然な人間の感情だと思っています。

長い介護の果てに、やっとその人が楽になれたのだという安堵感。
それが許される社会であってほしい。

久坂部羊さんの『廃用身』が20年も前に問いかけたことが、2026年になってもまだ「問いかけ」のままで終わっているのが、この国の現実です。

死の致死率は100%。
これは変わらない。
ならばせめて、その100%の死を、誰かの苦しみの上に積み重ねるのをやめてほしい。

あなたは、自分の最期をどう選びますか。
そして、大切な人の最期を、どう見届けたいですか。

死について考えることは、決して縁起の悪いことではなく、今を生きることへの、いちばん誠実な向き合い方だと、筆者は信じています。