インプロビゼーション(Improvisation)とは、音楽のジャンルなのか?
それとも音楽の構成要素の一つに過ぎないのか?
20代の筆者は前者であったが、今の時点では後者である。
さて、しばしば即興演奏と訳されることの多いインプロビゼーションであるが
演奏者が”自由に”演奏してもいいという意で申し分ない説明であると言えるだろう。
音楽をはじめたばかりの方々が見れば、楽譜でよくみかける”ad lib”とは何が違うのか?
と思うかもしれない。
確かに”ad lib”も”自由に”でいい。
しかしこれはラテン語であり”好きなように”とか、”望むように”などの意が強い。
”あなたの好きなように、望むように”というニュアンスには、やはり対象物がそこにはあるわけです。
それは、楽譜に対して、かもしれないし、アンサンブルに対して?かもしれない。
演劇や舞台であれば、台本に対して?舞台構成に対して?
この意味から紐解けば、インプロビゼーションは対象物がない故に、”自由に”が可能なのである。
西田敏行がドラマの撮影にてad libでセリフを変えて演じても成立はするが、インプロビゼーションで演じてもドラマは成立しないわけである。
コール&レスポンスとインプロビゼーション
この辺りも曖昧な表現であることが多いコール&レスポンス。
つまり、演奏者がアクションをコールしたことに対して、共演者がそれに反応してレスポンスを返すというもの。
ジャズ音楽から生まれた文化ではあります。
当然クラシック音楽には存在しません。
コール&レスポンスは紛れもなく、ad libの領域であり、音楽という対象物に対し、演奏者や共演者という複数の対象物があるわけでありまして、極めて秩序的な表現方法の一つであると言えるわけですね。
これは、次に展開する自由意志よりも前段階のおはなしであるわけです。
自由意志からの解放
ベンジャミンリベットは自由意志について研究した科学者でした。
ここから少し話は複雑になってくるわけですが、、、
(そうなんです、インプロビゼーションとは極めて小むつかしいジャンルであるのであります。)
彼は0.5秒という仮説を立てていますが、最新の研究では、7秒という説もあるほど、果たして人間の自由意志とはなにか?ということを考えるには、私たちの哲学的探究が足りない・・・というのが正直なところなのではないだろうか。
つまり、私たちが何かアクションを起こすというときは、私たちの意思が先ではなく、脳がすでにアクションを起こしているということ。
そのアクションを後から”わたし”が観測することによって、”わたし”の意思で起こしたアクションであると整合性を取るというものです。
仮にこれが科学的に正しいとしても、正しくないとしても、インプロビバイザー(インプロビゼーションを行う人)にとっては不都合な矛盾が生じるわけです。
つまり、この世界は観測者が観測してはじめて成立しているという量子的な事実。
シュレッテンガーの猫にあるように、観測するまではそこに何かが在るのか、ないのかは暫定的に不確定であります。
即興演奏の観測者
では、インプロビゼーション音楽にとっての観測者とは誰なのか?
ad libはとっても簡単ですね、一番最初の観測者は”わたし”です。
そこから、共演者や聴衆へと広がっていくわけです。
インプロビゼーションにとっての観測者はこれらを飛び越えて”オーディエンス”であると言えます。
“わたし”という対象物がそこに存在してしまうと、それはad libと同じ定義になってしまうわけです。
そのため、インプロビバイザーは常に自由意志からの解放を必要とするわけですが、先述した通り、ベンジャミンリベットの実験、または、そこから派生した最新の研究によると、人間が”ただそこに在る”という状態が(既に)インプロビゼーションとして成立する。
と結論づけることができますね。
現実に観測する即興演奏が過去のものになる理由
エンタングルメントつまり、量子もつれは、量子情報の結合において最も重要な概念です。
量子もつれは、2つ以上の量子システムが互いに強く結びつき、たとえ遠く離れていても、一方の状態が確定するともう一方の状態も即座に決まるという現象です。
これは、情報の「非局所性」を示し、離れた場所にある情報同士が結びつくための基礎となります。
エンタングルメントによって、複数の量子ビット(キュービット)間で相関関係が作られ、情報が結びつきます。
脳の信号は一つの情報です。
これがエンタングルメントしたとして現実に同時に実行結果、つまり即興演奏が生じたとすれば、アクションを起こした”わたし”は介在しないとになります。
これまた物理次元に生きる私たちにとっての日常からは意味不明で摩訶不思議な現象のように感じるかもしれませんが、この”わたし”の介在しない、音楽というものが、極めて美しい、この宇宙の究極のアートで在るとも言えるわけです。
ここにインプロビザーションの美しさの真髄があります。
これを神の領域と呼ぶのもいいし、神の音楽と呼ぶのもいい、また天からインスピレーションが降ってきたと呼ぶのもよし。
存在(神と呼んでもいい)が表現するプロセスをどうにか物理次元で表現(可視化)する。
それがインプロビザーションです。
わたしとは何か?
即興演奏を行う上ではここから考察する必要があります。
“わたし”とはなにか?
私たちが行うアクションすべてが脳先行で行われるのであれば、わたしとはなにか?は非常に難しい問いになるわけです。
量子的に考察すれば、情報が演奏を生み出す、つまりわたしは介在する必要のない存在です。
ただ在る状態であるのであれば、そこに即興演奏が発生します。
しかし、あなたが一度でもわたしを意識した瞬間、意図的に介在させないようにする必要があり、わたしという枠組みをしっかり定義しなければいけません。
わたしとは?
皮膚で覆われた範囲内のことなのか?それともわたしたちが”意識”とさっかくするものなのか?
これを筆者は外側から観測される範囲と定義します。
内在する”わたし”では、範囲は外に広がりますので、”わたし”🟰無限となってしまいます。
意図的に介在をさけるためには有限で在る必要があるわけです。
なので外側からの観測領域と定義することで、介在を意図的に防ぐことができるというわけですね。
これを言い方を変えればスピリチュアル的にはハイアーセルフという言い方もできるかもしれません。
シンプルにまとめると、インプロビゼーションというのは、決して”わたし”は演奏できないということになります。
即興演奏の方法
よく意識をフラットにして、ありのままを演奏するという捉え方がありますが、やはりここまで書いてきた通り、あなたがありのままを演奏しようと意識した瞬間それは、インプロビゼーションではなくなります。
1つ目の方法は、ハイヤーセルフとして”わたし”を観察して、意図的に”わたし”の介在を避ける方法。
もう一つが、悟るという状態。
ただ在るということ。
ただ在る状態が🟰インプロビゼーションであるというのは、脳が先行してアクションを起こすという科学的な実験の検証結果をもとにしています。
もちろん、ただ在る、悟っている状態であれば、わたしという領域、範囲を定義する必要はありません。
ただ在る、、、そこに境界線はないのです。
悟りを開いた釈迦が、今現在もわたしたちは一人の表現者として感じられるものがあるかと思います。
それは、釈迦がインプロビゼーションしていたのかもしれません。
本当の意味でのインプロビゼーションというのは、この物理次元での領域において何百年も、何千年もかけてじわじわとまるで冷えそうなマグマのように動いてきて完成するのかもしれません。
即興演奏という商品
では、舞台として、ステージとしてどう切り取るのか?
そのパッケージング力を発揮するためには先述したような緻密なインプロビゼーション哲学が一つのツールとして必要なのです。
“わたし”に境界線がなければ、すべては一つになります。
とってもシンプルなこの世界の原理です。
إن شاء الله
インシャーアッラー(Insha’Allah)というイスラム文化のとても美しい詩(コーランの一つ)があります。
「神のご意志のままに」
即興演奏を楽しんでみてはいかがでしょうか?