【エッセネ派に伝わる真実の創世記】神は人間を裁かない

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記事の執筆:朝比奈 幸太郎 / Kotaro Asahina

音楽大学で民族音楽を研究。卒業後ピアニストとして活動。
インプロビゼーション哲学の研究のため北欧スウェーデンへ。

ドイツにて民族音楽研究家のAchim Tangと共同作品を制作リリース。
ドイツでStephan Schneider、日本で金田式DC録音の五島昭彦氏から音響学を学ぶ。

録音エンジニアとして独立し、芸術工房Pinocoaを結成。
オーストリア、アルゼンチンなど国内外の様々なアーティストをプロデュース。

現在はヒーリング音響を研究するCuranz Soundsを立ち上げ、世界中に愛と調和の周波数を発信中。

新約聖書でははじめにことばあり。

ことばは神(イエス)であるといわれており、旧約聖書では、7日間で神は天地創造したとされています。

ただし、旧約聖書でも神は思考で天地を創ったわけではなく、「光あれ」と言葉、つまり音によって創造したとされています。

新約聖書は2000年ほど前にイエスとはさほど関係のない人たちが書いた新しいもの。

旧約聖書はたくさんの説がありますが、3000年近く前に1000年くらいかけて徐々に書き上げられていったもの。

おそらくファリサイ派が継承していると言っても過言ではありませんが、イエスはこのファリサイ派に異を唱えたナザレ派でした。(外部がそう呼んだ)

しかhし、イエスは実はエッセネ派だったのではないか?という個人的な仮説と、ドロレス・キャノンさんの書籍での退行催眠の話を組み合わせると、エッセネ派というユダヤ教集団はファリサイ派が受け継いできた旧約聖書をあくまでも参考程度にしており、古代から受け継いだ叡智を独自のコミュニティーで研究していたそうです。

つまり、新約聖書は当然ですが、旧約聖書でさえも、多大に受けてきた政治的社会的な影響をほとんど受けずにシンプルな宗教形態を学んでいた集団がエッセネ派であるといえます。

本日はこちらの書籍を参考にしながら、エッセネ派のスディーという人物(退行催眠)が知っている天地創造の物語を解説しながらシェアしていきます。

おそらく多方面のスピリチュアリズムの中では宇宙の創造、はじまりについて言及されているものも多いかと思います。

2000年前時点での情報ですので、現在よりもより古代に近く、夢とロマンが広がる内容となっています。

ボイドという無

宇宙のはじまりは “無” であったとする概念は昨今では一般的であると言えます。

2000年以上前のエッセネ派のスディーも「その話はトーラーには記載されていない」と語っています。

虚空からはじまり、神は宇宙の中のボイドに気づき、そのボイドを埋めなくてはならないと悟りました。

神はその虚空を埋めたという認識があります。

これは現代のスピリチュアル界隈でも共通の認識としてある方も多いのではないでしょうか?

「ここになにかがなくてはならない。空な状態に残しておくということは己自身も空ということになってしまうのではないか」と気付いたそうなんです。

神がそれに気づき、埋めた瞬間から宇宙は一瞬にして、質量が一点に集中したと言われています。

これが俗にいうビックバン理論ですね。

スディー曰く、星や惑星も、元々は、神の一部だった。

といっています。

そうしてあらゆるものが形作られていったそうです。

昨今ではビックバンに対して、ビッククランチという概念がありますが、このビッククランチに関しては後述しようと思います。

神の不満足感

星や惑星が神の一部であるという理解は、なんとなく体感として感じられる方も多いのではないでしょうか。

神が内側にいて、世界をボイドから創造したとすれば、星と惑星だけでは不十分であると感じることもなんとなく理解できます。

神はまだ空虚感があり、全体を感じれなかったと言われています。

そこで、神は地上にいきものをおくことにした。

そして試行錯誤の上、いろいろな姿をイメージし、創造したのが人間である・・・

とエッセネ派のスディーはこのように理解しているわけです。

ここで質問者は投げかけます。

それは神の独断で行われたのですか?

それとも、そこには神の手助けをするほかの存在もいたのでしょうか?

すると、他の存在もいたと証言するわけです。

「そこにはエロリがいた。それはぜんぶであり、全員という意味だ。うまく説明できていない気がするが。(ためいきをつく)やはり、エロリではない。そこにはエロヒムがいた。エロヒムとは天空にいるすべての存在たちのことを指す。要するに、天界にいるすべての存在がそこに居合わせていたのだ。

ヤハウェとエロヒムの使い分け

ここでヤハウェは一人であると思っていたと質問すると、ヤハウェは我々の神であって、私が敬うのはヤハウェだけであるとスディーはいいます。

どうやら他の神なる存在たちもいて、それらの神々を尊ぶ人たちもいるそうです。

その神なる存在たちが唯一神のヤハウェを手助けしているという構図になっていて、それらが統合された存在であるということです。

「みなすべての一部でもあるが、個々の存在でもあるということだ。各々、気にかけているものは違うが、なにごとかを成し遂げなければならないときは、神なる存在たち全員で一致団結する。そして一致団結したときは、そこにはすべてがある。完璧な世界が存在しているのだ。」

スディーの宗教観では、ヤハウェはエロヒムの一部であるという認識だそうです。

しかしそれは、エロヒムがヤハウェを支配しているというニュアンスではないんですね。

そして、全体と完全に調和する生き物がつくられるまで試し続けたそうです。

ようやく神のお眼鏡にかなう生き物が創造されたとき、神の子供たちが地上界に関心を示し始めました。

この世界を体験したいと望むようになったということです。

神の子供達とはなんでしょうか?

「それは天使たちのことだ。神が宇宙を創造したとき、同時に作った聖なる存在たちのことだ。まだ無の状態で闇に包まれていたとき、実は、聖なる存在の本質的な要素もそのなかに含まれていた。そして、神が宇宙を創造したとき、同時に天使も誕生した。すべては瞬時につくられたのだ。

なにも存在しないという無からすべては一瞬で創造されました。

宇宙を創造するときはとてつもないエネルギーの爆発が起こったとスディーも認識していたのです。

そのときのエネルギーの光が天使と化したのである。

地上は大渋滞?!

すでに地球上に生き物は生息しており、そこに魂が入り込み、成功したことでこの世界がどんどん拡大していったそうです。

天使たちから人気の場所となったわけですが、しばらくすると巨悪な存在が地上に登場するようになったそうです。

また、地上は天使たちに大人気の場所となっていたわけですが、決してエロヒムが送り込んだわけではなく、エロヒムはあくまで地上に降りる許可をしただけであったというわけです。

肉体のコントロール

ここはとてもすばらしい世界だった。だが、地上にとどまるようになってから、うまくいかなくなってしまったのだ。以前は肉体から意識を自由自在に離脱させることができた。長い間、そうすることで、おかしくならずにすんでいた。そして肉体から意識を離脱させたあとでも、肉体は呼吸し続けることができた。人間の姿形をそのまま残し、地上で存在し続けることが可能であった。
また、意識を肉体から離脱させたあと、天界に戻り、地上界を体験していないほかの聖なる存在たちと語り合うことができた。
天界にいるほかの聖なる存在たちの美しさに触れることで、自分たちも同じように美しく清らかな存在であるということを、再び思い出すことができた。ところが、長い間この地上界にいることで意識を肉体から離脱させる能力を失ってしまった。

イエスとエッセネ派〜退行催眠で見えてきた真実

天界にいるほかの聖なる存在とのかかわりを絶たれてしまったために、地上での暮らしがおかしくなっていったというわけです。

意識を肉体から離脱させる能力を失ってから、すべてが狂いはじめたといってもいいだろう。
それをきっかけに、彼らもどんどん変形し、歪んでいってしまったのだ。

イエスとエッセネ派〜退行催眠で見えてきた真実

肉体の寿命

旧約聖書の中では、ノアの箱舟以前の人類は900歳ほどの寿命が平均であったわけですが、この秘密もスディーは理解していました。

ちなみに、ユダヤ暦だったから?という疑問があるかと思いますが、ユダヤ暦の場合は900歳よりももっと年齢が上になります。

これらの時代に該当するかどうかはわかりませんが、以前の人類は、意識を肉体から離脱させ、「再充電」のような状態が可能であったということです。

この充電という表現は、聖なる空間にて聖なる存在と直接交流することで、聖なるエネルギーを充電するというニュアンスになります。

また、その時代は肉体との決別も自分の意思で可能であったとのこと。

ヤハウェの審判

肉体の寿命から、宇宙の生命体の話になります。

ここから面白かったのが、月もかつては大気に覆われ、生命体が存在していた。

しかし、現在はわからないとスディーは言っています。

月に関しては、都市伝説含め様々な憶測や推察が存在していますので、月に関する本当のところというタイトルの記事でお届けしていきます。

ここからはヤハウェが人類を滅ぼしたという説についてスディーに尋ねます。

いや、神は審判を下してはいない。ヤハウェが罪のない純粋な存在までも滅ぼすと思っているのか?そんなわけがあるまい。人間が自ら崩壊させたのだ。おそらく、そういう説が伝えられているのは、自分たちのせいにするより、神の仕業にし、責任転嫁する方が楽だからであろう。そう思うわないか?

イエスとエッセネ派〜退行催眠で見えてきた真実

人間とは実に私利私欲に走る面白い存在です。

確かに神様に対して責任転嫁するような風潮がありますよね。

何か悪いことが起きたら神の怒り、神様の仕業であるというのに、自分にとっていいことが起こってもなかなか神様に感謝しない。。。どころか、自分の力であると思ってしまう傲慢な性質さえ持っています。

今存在し、空気を吸って美味しい水を飲み、美しい太陽の光を安全に浴びる・・・こんな神々しい体験に対しては神様に感謝することもなく、当たり前であるとさえ思う人間も、自分の意図しない出来事が起こると神のせいにしてしまうのです。

ノアの箱舟の真実

スディーに伝えられている話だと、ノアは人格者であり、本当に善良な男であって、神はとても喜んでいたということです。

彼の息子たちもヤハウェの教えを忠実に守っており、神は彼らのことを誇りに思っていたそうです。

なので、これ自身も神が引き起こしたことではないとスディーは言っています。

おそらくですが、スディーは、当時のエッセネ派の中でも、トーラーの監督をするほどの修行者ですし、エネルギーの独特な使い方、また霊的な感覚の修行を幼い頃からする秘密教団なので、例えばシュタイナーのような霊視ができたのではないか?と思います。

少なくともアカシックレコード(素粒子の量子物理的な図書館)には自由にアクセスし、情報を取得できていたのではないかと思っています。

これは地球環境が整う以前の話だともいわれている。
〜中略〜
大雨も降ったかもしれない。
しかし、洪水発生の主な要因は地層に変化が起きたからだと私は推測している。
おそらくなんらかの要因で地層が盛り上がり、その歪みで地層が崩れ落ちたのではなかろうか。
大洪水の原因は大雨だけではないはずだ。

イエスとエッセネ派〜退行催眠で見えてきた真実

これは非常に興味深いものです。

洪水の要因は地層の変化であるとスディーも感じているわけですが、日本人の木内さんが霊視で見てきたノアの洪水〜月衝突説を見ると、共通点が見出せると言えないでしょうか。

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清い動物の定義

ノアの箱舟といえば、清い動物を7つがい、そして清くない動物をひとつがい連れていったと言われています。

これは、箱舟の中で繁殖させ、食べるため。

ユダヤ教では、食べていいもの、食べてはいけないものがしっかりと定義されています。

清い動物とは、反芻動物のことであるとされています。(はんすうどうぶつと読む)

反芻動物のことを偶蹄類(Artiodactyla)(ぐうているい)」といいます。

偶蹄類は、偶数本の蹄を持つ動物のグループで、反芻を行う種が多く含まれています。

例えば、牛や羊、鹿などがこのグループに属します。

反芻動物の「反芻を行う」とは

食べ物を一度飲み込んだ後に再び口に戻して咀嚼する行動を指します。
この反芻のプロセスは、反芻動物が栄養価の低い植物性食物を効率的に消化し、必要な栄養素を最大限に吸収するために重要です。

動物 平均体重 (kg) 平均寿命 (年)
800 20
水牛 900 25
バイソン 900 20
ヤク 500 25
70 12
ヤギ 80 15
ガゼル 50 12
インパラ 50 15
クーズー 250 20
ヌー 250 20
スプリングボック 40 10
シカ 150 15
ヘラジカ 500 20
トナカイ 150 15
ミュールジカ 100 15
ヨーロッパアカシカ 200 20
ダマジカ 100 15
シカジカ 25 10
キリン 1200 25
オカピ 250 30
プロングホーン 60 15
ムスクジカ 15 20
ジャコウウシ 350 15

偶蹄類の反芻動物としては、ラクダもありますが、ラクダに関しては、肉厚のクッションが蹄についており、蹄の形が違っていて、食してはいけないとされています。

馬やロバに関しては、奇蹄類(Perissodactyla)(きているい)であり、清くない動物とされています。(食べてはいけない)

創世記の真実

スディーの宗教観とは、神に対する至上の敬意を表しつつ、至上の敬意があるからこそ、現代に伝わっている神学的な矛盾を的確に突いていると言えます。

例えばノアの箱舟に関しても、「虹がでて、神は二度とこんな大洪水は起こさないと約束した」と旧約聖書では伝えられていますが、スディーはこのエピソードを知らないようでしたし、なによりも、なぜ神はちょっと申し訳なさそうなニュアンスを含ませているのか?

いかにも人間的な発想であり、いかに旧約聖書が当時の普通の人たちが自分たちの都合の良いように時代と共に付け加えたのか?というのが伺えます。

神は人間に審判を下すことはないし、約束もしない。

そして、エロヒムという

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