【祈りの効力】日本語の祈りを言葉に出して祈る意味〜言霊の力

祈りは本当に効果があるのか?

祈りの力を信じていない方はこの世の中にたくさんいることでしょう。

人類は古代より様々な文化・宗教の中で祈りの力によって物質次元の現象を変えてきた(観測されたかどうかは別として)という事実があります。

当然ながら私たちのふるさと、日本国においても祈りの儀式は存在しており、それは決して過去のものではなく、現在でも神道式の祈りの儀式は国家として続けられています。

日本語と言霊

神道の祈りといえば祝詞でしょうか。

筆者も伊勢神宮で祝詞を挙げてもらったことがありますが、やはり独特の音、日本語が儀式感と歴史を感じさせてくれます。

なんか仰々しい言い方?

祈りだとはいえ、普通にいえばいいじゃない?

と思うかもしれません。

もちろん現代では文化的な側面に加えて儀式としてのパフォーマンスの側面も少なからずあるでしょう。

しかし、もともと祝詞の音やフレーズ、読み方が独特な雰囲気を持っているのには理由があって、日本語の音、そして言霊の存在を避けては語れないわけです。

日本語と言霊に関してははせくらみゆきさんがとても深く研究されていて、是非一度彼女の書籍を読んでみてほしいと思いますが、日本語の言霊というのはそもそも別の次元との移行を行うための周波数帯域であるわけです。

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言語パスバンド

言語パスバンドというのをご存知でしょうか?

各言語によって話者が声帯を震わせる周波数帯域があるわけですが、日本語は非常に範囲が狭いことが特徴なんですね。

わずか125ヘルツから1500ヘルツまでしか日本語の音の中には存在しないわけです。

この図を見て日本人が英語をいつまで経ってもしゃべれないし、聞き取れない理由がわかりますよね。

フランス語がもっと狭いのは驚きですが、ながじゅばん〜はんじゅばん〜なイメージのフランス語、日本人は実は真似しやすいですよね。

筆者は1人の音楽家として、神道が神の世界との連絡となる次元の移行のための音が日本語の言葉の中に、そしてそれが魂として次元を超えてうごめくのはこの言語パスバンドも関係しているのではないかと想像しています。

日本語でしか効果がないのか?

祈りや儀式は何も神道だけではありませんよね。

古今東西世界各地で様々な形態、様式で行われてきました。

ただし、ここでも日本語の言霊が特別なんじゃないか?と思わせることがあります。

それは、日本語以外の祈りは造語が存在していたり、音楽に乗せられて旋律をつけられることが多いということ。

例えばキリスト教のアーメンもそうですね。

これはもともとヘブライ語のアーマン(まことに、真実に)という意味から来た言葉ではありますが、

他にもミサなどをはじめ、まだ神々の世界と直接繋がっていたと言われるギリシャ音楽の世界でも旋律に乗せて祈りを届けるということが行われていました。

これは、言葉そのものの周波数がとても大切であるということを示唆しているのではないか?と1人の音楽家として仮説を立てているわけであります。

霊界の周波数や芸術的視点から音と次元の交差する場所を感じる音楽家が音楽を作ることで祈りが届けやすくなるのだと、これは音楽家として確信を持って言えます。

仏教でも指示されている音

仏教では平安時代に日本に入ってきた際、真言宗や天台宗の経文の中にはネウマ譜と呼ばれる楽譜がセットで輸入されてきています。

これは経文を唱える際に必要な音、周波数を指定されているというわけ。

当然チベット密教などでも宗教独自の周波数で経文を唱えることは当然のように行われています。

古代の仏教でもネウマ譜のチューナーとしてシンギングボールや、ティンシャなどの法具が存在していたことは上記を踏まえると自然に理解が進みますね。

能楽のあの世からの道

元祖日本のヒーリング音楽と言えば能楽です。

能楽には人々を癒す音響効果があることは様々な研究によって示唆されていますが、文化的背景を考える時にやはりあの世の周波数を物質化するための音という存在をしっかり表現されています。

能楽の舞台では目付柱、4本それぞれの名前があるわけですが、角(すみ)柱、ワキ柱、笛柱、シテ柱この道というのがあの世からこの世への道と表現されています。

つまり舞台上はこの世、物質次元であるというわけですね。

幕の後ろはあの世であり、神様も地獄の存在もこの世に同じようにこの世に同じ道を通って現れます。

つまり非物理次元であると括られているわけですね。

それはつまり四次元の世界が能楽でいう舞台袖ということになるでしょう。

これらがこの世に物質化するときに音が存在するわけですが、当然それは物質化のための存在であることは間違い無いでしょう。

能楽の世界では音無くして彼らはこの世に現れることはありません。

能楽のルーツは実は釈迦の存在無くして語れないところがあります。

釈迦の説法の前には歌や舞などの儀式があり、場を浄化して整えてから説法が始まっていたといわれています。

これは世阿弥の伝書の中に書かれているそうですので、世阿弥がこの事実について触れているということ自体が原始仏教の世界観と能楽が深い関係性があることがうかがえる事実ですね。

集団の祈りで天気が変わる

集団で祈りを捧げることで天気が変化するという実験が行われたことがあるそうです。

太古の昔は天気だって病だって祈りの力で変えていたし、治していました。

量子物理的な視点でみると、天気が変化したのは祈りがあるからで、祈りをしたから天気が変化したのではなく、病が治ったから祈りがそこにあるわけで、祈ったから治ったのではありません。

時間という概念に縛られた物理次元的視点でみると、祈ったから治ったということになります。

この時間軸は前者が物理現象としては有効ですから、天気が変わったり病が治ったりするのは祈りが原因であるといえるわけです。

つまり、祈りの力は効力があると結論づけることができます。

そして物理次元的視点で見る時に有効打となるのが音の存在。

音の存在によって過去・現在・未来の時間軸の次元を超越することによって観測と原因の関係性は無限に広がっていくというのが音、音楽における本来の宗教的概念なのではないでしょうか。

だからこそ、どちらの視点を観る、どちらの視点に重きを置くにしたとしても「音」という神の領域を疎かに扱ってはいけません。

それは最終的に素粒子となり、光となり、物質次元を超越する鍵となり、出入り口になるわけですから。

本日は言霊についての考察でした。

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