【バッハと神】バッハを軸とした宗教音楽の叡智を紐解く

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ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、バロック音楽の時代を代表する作曲家であり、オルガニスト、ヴァイオリニスト、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者、音楽教師としても活躍しました。

彼は生涯にわたって数多くの作品を生み出し、その音楽は後の音楽家たちに多大な影響を与えました。

この記事では、バッハの人生、音楽、そして彼が残した史実やエピソードを深堀りし、その叡智を紐解いていきます。

また、音楽史としてのバッハだけでなく、Curanz Sounds代表の音楽家である:朝比奈幸太郎自身が、バッハの音の叡智、そして、バッハの教会と癒しについても徹底解説していきます。

バッハに関連する有名な言葉としては、「音楽の目的は、神を栄光させ、魂を喜ばせることにある」と「すべての音楽は、最も高い神に捧げられなければならない」という言葉があり、彼の信仰心と音楽に対する姿勢を反映しています。

このフレーズ自体は史実として残っているわけではないですが、史実としては、彼の作品の一部に見られる献辞やコメントとして残っています。

例えば、彼は自身の作品に「Soli Deo Gloria(神のみに栄光を)」と記すことがあり、これは彼の音楽を通じて神に栄光を捧げるという彼の深い信仰を示しています。

神の音楽を創り続けたバッハについて徹底解説していきます。

バッハの年表

まずはバッハの年表を把握しておきましょう。

年齢 出来事
1685 誕生 3月31日(新暦)、アイゼナハにて誕生。
1694 9歳 母マリア・エリーザベトが亡くなる。
1695 10歳 父ヨハン・アンブロジウスが亡くなる。兄ヨハン・クリストフのもとへ移る。
1700 15歳 ルネブルクの聖ミカエル学校に入学。
1703 18歳 アルンシュタットの新教会オルガニストに就任。
1707 22歳 ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会オルガニストに就任。同年、マリア・バルバラ・バッハと結婚。
1708 23歳 ヴァイマルの宮廷オルガニストおよび宮廷音楽家に就任。
1714 29歳 「主よ、人の望みの喜びよ」を作曲。
1717 32歳 ケーテンの宮廷楽団長に就任。
1720 35歳 妻マリア・バルバラが亡くなる。
1721 36歳 ブランデンブルク協奏曲を作曲。
1723 38歳 ライプツィヒのトーマス教会のカントルに就任。
1724 39歳 「ヨハネ受難曲」を作曲。
1727 42歳 「マタイ受難曲」を作曲。
1730 45歳 「ミサ曲 ロ短調」の一部を作曲。
1741 56歳 「ゴルトベルク変奏曲」を作曲。
1747 62歳 フリードリヒ大王に招かれる。この訪問が「音楽の捧げもの」の着想につながる。
1749 64歳 「ミサ曲 ロ短調」を完成。
1750 65歳 7月28日、ライプツィヒにて亡くなる。

幼少期のこと

ヨハン・セバスティアン・バッハは、1685年3月21日(旧暦)/3月31日(新暦)に、当時のヨーロッパの政治的・文化的な変動が激しい時期にザクセン・アイゼナハ公国の首都アイゼナハで生まれました。

この時代は、バロック音楽がその華やかなピークに達し、多くの地域で独自の音楽スタイルが発展していた時期です。

バッハ家は音楽家の家系であり、ヨハン・セバスティアンは家族の中でも特に才能を示しました。

彼の父、ヨハン・アンブロジウス・バッハは、町の音楽家のディレクターとして働き、若いヨハン・セバスティアンにヴァイオリンと基本的な音楽理論を教えたとされています。

1694年、バッハが9歳の時に母が亡くなり、続いて父も亡くなるという悲劇に見舞われました。

この重大な人生の転機は、彼を兄のもとへと導きました。兄ヨハン・クリストフは、ザクセン=ゴータ=アルテンブルクのオールドルフにある聖ミカエル教会のオルガニストでした。

ここでヨハン・セバスティアンは、楽譜の価値と音楽学習の重要性を学びました。

当時、楽譜は非常に貴重であり、音楽をコピーする行為は、知識と技術の伝承に不可欠なものでした。

バッハの音楽教育は、ヨーロッパ各地の音楽スタイルに触れることでさらに豊かなものとなりました。

兄からは、南ドイツの作曲家や北ドイツ、フランス、イタリアの音楽まで、幅広いレパートリーを学びました。

これらの経験は、バッハの作品に多大な影響を与え、彼の音楽が多様な文化的背景を持つことの基礎を築きました。

1700年、バッハはリューネブルクの名門聖ミカエル学校に入学し、そこでの2年間は彼にとって重要な成長期となりました。

リューネブルクでの経験は、バッハがより幅広いヨーロッパ文化に触れ、音楽だけでなく、神学、ラテン語、ギリシャ語などの学問も学ぶ機会を得たことを意味します。

また、北ドイツの貴族の息子たちとの交流は、彼の社会的視野を広げることにも寄与しました。

この時期のヨーロッパは、宗教改革の影響が色濃く残る中、芸術と文化の発展が見られました。

バッハの幼少期に受けた教育と経験は、彼が後にバロック音楽を代表する作曲家となるための土台を築いたと言えるでしょう。

当時のアイゼナハの様子

画像は当時の様子を描写しながらAIに生成してもらったイメージ画像です。

ヨハン・セバスティアン・バッハが生まれた1685年のアイゼナハは、現在のドイツ、テューリンゲン州に位置し、ザクセン=アイゼナハ公国の首都でした。

この時期のアイゼナハは、ヨーロッパの政治的・宗教的な変動の中心にある小さな都市でありながら、文化と音楽の重要な中心地の一つでした。

人口と社会

17世紀後半のアイゼナハの人口は、数千人規模であったと推測されます。当時の都市は比較的小さく、密接なコミュニティが形成されていました。社会は身分制度に基づいており、貴族、聖職者、市民、農民などの階層が存在していました。バッハ家は市民階級に属し、音楽家としての地位を確立していました。

政治と歴史

アイゼナハは、ヨーロッパの宗教改革の影響を受けた地域でした。マルティン・ルターは、1521年にアイゼナハ近郊のヴァルトブルク城で「新約聖書」のドイツ語訳を行ったことで知られています。

この歴史的背景により、アイゼナハおよび周辺地域はプロテスタントの強固な拠点となりました。

17世紀から18世紀にかけてのアイゼナハは、ザクセン公国の一部として、ヨーロッパの大きな政治的変動の中でさまざまな影響を受けました。

三十年戦争(1618年-1648年)はこの地域にも大きな影響を与え、経済的・社会的な混乱を引き起こしました。

しかし、バッハが生まれた1685年頃には、相対的な安定期に入っていました。

バッハの音楽と神との関係

ここからは特にCuranz Soundsにとって非常に大切な項目になってきます。

音が、音楽が、なぜ人々を癒すのか?についての考察に入るための重要な歴史的アナライズになってきます。

そもそもプロテスタントってなに?

アイゼナハはプロテスタントの基盤となる街であることがわかりました。

ではそもそもプロテスタントとは何か?

プロテスタントは、キリスト教の主要な分派の一つで、16世紀に起こった宗教改革を起源とします。

この改革は、マルティン・ルターをはじめとする宗教改革者たちが、ローマ・カトリック教会の教義、慣習、権威に対して異議を唱えたことから始まりました。

プロテスタントの名称は、「抗議する者たち」という意味で、1529年の神聖ローマ帝国の帝国議会でカトリック教会の決定に対して「抗議」したことに由来します。

プロテスタントとカトリックの主な違いは以下のようにまとめられます。

  1. 聖書の権威: プロテスタントは聖書をキリスト教信仰と実践の最高の権威と見なし、「聖書のみ」(Sola Scriptura)を強調します。一方、カトリック教会は聖書と伝統(教皇と司教の教え)の両方を権威として認めます。
  2. 救済の理解: プロテスタントは「信仰による義認」(Sola Fide)の原則を採用し、信仰によってのみ人が神の前で義とされると教えます。カトリック教会は、信仰と善行が救済に必要であると教えます。
  3. 教会の構造: カトリック教会は教皇を最高位の指導者とし、階層的な構造を持っています。プロテスタントの教会は一般に、より分散型で自治的な組織構造を持ち、地方教会の自主性を重視します。
  4. 礼拝の形式: カトリックの礼拝は伝統的で儀式的な要素が強く、聖餐式は「変化」の教義に基づいています。プロテスタントの礼拝は、よりシンプルで聖書中心のアプローチを取り、聖餐の理解も異なることが多いです。

プロテスタントには多様な教派があり、ルーテル教会、改革派教会、バプテスト教会などが含まれます。

それぞれの教派で教義や礼拝のスタイル、教会組織に違いがありますが、カトリック教会と区別される基本的な原則は共有しています。

キリスト教のそもそもの誕生の歴史や経緯などは、諸説あり、チャコス写本などの発見によって様々な解釈が生まれています。

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ルーテル教会の特徴

ヨハン・セバスティアン・バッハが活動したトーマス教会は、ライプツィヒにあるルーテル教会のことを指しています。

ルーテル教会は、プロテスタント宗教改革の中でマルティン・ルターによって始められた教派であり、プロテスタントの中でも特に重要な位置を占めています。

この教派の特徴をまとめてみましょう。

これらを見ることでバッハの信仰の基盤となるのがどこにあるのか?

音と神との繋がりをどのように紐解けるかが見えてきます。

  1. 聖書中心主義: ルーテル教会は聖書をキリスト教信仰の最高権威として重んじ、「聖書のみ」(Sola Scriptura)を教義の中心に置きます。
  2. 義認の教え: 「信仰による義認」(Sola Fide)という原則を採用し、信仰によってのみ神の前で正しいと認められると教えます。これは、人間の行いではなく、キリストに対する信仰によって救済が得られるという考えです。
  3. 恩寵による救い: 「恩寵によるみ救い」(Sola Gratia)もルーテル教会の核心的な教義であり、人間は神の恩寵によってのみ救われるとします。
  4. 二種典礼: ルーテル教会は、バプテスマ(洗礼)と聖餐(主の晩餐)の二つの典礼をサクラメント(聖礼典)として認めます。これらは、信仰生活において重要な役割を果たします。
  5. 礼拝の言語と形式: ルーテル教会は、礼拝において地域の言語を使用することを推進しました。これにより、信徒が礼拝や聖書のメッセージをより深く理解することを可能にしました。また、音楽と合唱を礼拝に取り入れることで知られています。

バッハはトーマス教会で音楽監督(カントル)として働き、その時代のルーテル教会の礼拝や宗教的行事で演奏される多くの教会音楽作品を作曲しました。

彼の作品は、ルーテル教会の信仰と礼拝に深く根ざしたものであり、キリスト教の教えを音楽を通して表現しています。

カトリック音楽とプロテスタント音楽の違い

では実際にバッハはプロテスタント教派の音楽を作曲し、カトリック音楽というものもありますが、具体的にどのような違いがあるのでしょうか?

カトリックとプロテスタントの音楽は、それぞれの宗派の歴史、神学、礼拝のスタイルに深く根ざした特徴を持ち、キリスト教音楽の多様性を象徴しています。

この違いを理解することは、キリスト教音楽の幅広いスペクトルを深く掘り下げる上で重要となります。

カトリック音楽の特徴

  1. 歴史的深さと伝統: カトリック教会の音楽は、グレゴリオ聖歌に始まり、中世、ルネサンス、バロック期を経て現代に至るまで発展してきました。この長い歴史は、音楽の伝統と深さをもたらしています。
  2. リチュアルと儀式の強調: カトリックの礼拝は、伝統的な儀式とリチュアルに重きを置いています。音楽はこれらの儀式を豊かにし、聖性を高めるために用いられます。
  3. 多様な音楽形式: ミサ曲、モテット、カンタータなど、カトリック教会では多様な音楽形式が用いられ、礼拝や祭日に合わせて演奏されます。

カトリック音楽には多くの代表的な音楽家がいますが、ここではいくつかの重要な人物を紹介します。

これらの作曲家は、カトリック教会のために数多くの宗教音楽を作曲し、その音楽は今日でも世界中のカトリック教会で演奏されています。

  1. ジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ (1525-1594): ルネサンス期のイタリアの作曲家で、カトリック教会音楽における最も影響力のある人物の一人です。パレストリーナの作品は、その清潔さ、調和、そして宗教的な献身によって特徴づけられます。彼のミサ曲やモテットは、教会音楽の模範とされています。
  2. トマス・ルイス・デ・ビクトリア (1548-1611): スペイン出身のルネサンス期の作曲家であり、彼の作品は深い霊的な表現力で知られています。ビクトリアは主にローマで活動し、ミサ曲、モテット、レクイエムなど、感動的な宗教音楽を残しました。
  3. クラウディオ・モンテヴェルディ (1567-1643): ルネサンス後期からバロック初期にかけてのイタリアの作曲家で、宗教音楽だけでなく、オペラの発展にも寄与しました。モンテヴェルディのヴェスプロ・デッラ・ベアータ・ヴェルジネ(聖母マリアの晩課)は、特に有名です。
  4. アントニオ・ヴィヴァルディ (1678-1741): バロック期のイタリアの作曲家で、ヴァイオリニスト、教師としても活動しました。ヴィヴァルディは、四季で知られていますが、多くの宗教音楽も作曲しており、その中にはミサ曲やモテットが含まれます。
  5. フランツ・ヨーゼフ・ハイドン (1732-1809): クラシック期のオーストリアの作曲家で、「天地創造」や「四季」などのオラトリオで知られていますが、ハイドンは多くのミサ曲も作曲し、カトリック音楽に大きく貢献しました。
  6. ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト (1756-1791): クラシック期の作曲家で、彼の宗教音楽にはミサ曲やレクイエムなどがあります。モーツァルトのレクイエムは、彼の最後の作品であり、宗教音楽の中でも特に有名です。

プロテスタント音楽の特徴

  1. 聖書中心性: プロテスタントの音楽は、聖書の言葉を重視し、信徒が直接聖書のメッセージに触れられるように設計されています。賛美歌がこの目的を果たす主な手段です。
  2. 信徒参加の奨励: プロテスタントの礼拝では、全信徒が音楽を通じて礼拝に参加することが奨励されます。賛美歌は信徒全員が歌うことができるシンプルなメロディと神学的な歌詞を持っています。
  3. 多様性と革新: プロテスタント教会では、ジャンルやスタイルの幅が広く、古典音楽から現代音楽、ゴスペル、ロック、ポップスタイルの賛美歌まで、多様な音楽が礼拝で用いられます。

プロテスタントの音楽に貢献した作曲家は多く、その中でも特に重要な人物を以下に紹介します。これらの音楽家は、プロテスタント教会の礼拝や宗教的行事で用いられる音楽を豊かにし、信仰を深めるための作品を数多く残しました。

  1. マルティン・ルター (1483-1546): プロテスタント宗教改革の父であり、自らも多くの賛美歌を作詞・作曲しました。「神はわれらの避けるところなり」は、ルターが作った最も有名な賛美歌の一つです。
  2. ヨハン・セバスティアン・バッハ (1685-1750): バロック音楽の巨匠であり、ルーテル教会の音楽家として多くの教会カンタータ、オラトリオ、ミサ曲を残しました。バッハの作品は、プロテスタント音楽の最高傑作とされ、彼は「音楽の父」とも称されます。
  3. ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル (1685-1759): バロック時代の作曲家で、彼のオラトリオ「メサイア」は、特に有名なプロテスタント音楽の一つです。ヘンデルは、英国で主に活動し、その音楽は世界中のプロテスタント教会で演奏されています。
  4. フェリックス・メンデルスゾーン (1809-1847): ロマン派の作曲家で、「エリヤ」などのオラトリオで知られています。彼の作品は、プロテスタントの信仰と深い精神性を表現しています。
  5. チャールズ・ウェズリー (1707-1788): メソジスト運動の共同創始者であり、約6,000曲にも及ぶ賛美歌を作詞しました。「万軍の主よ、われらに来たり給え」などの賛美歌は、世界中のプロテスタント教会で歌われています。
  6. アイザック・ワッツ (1674-1748): 「賛美歌の父」とも呼ばれるイギリスの賛美歌作家で、彼の作詞した賛美歌はプロテスタント教会で広く歌われています。代表作に「喜びの泉より」などがあります。

違いをまとめる

  • 用途と機能: カトリック音楽は儀式を強化し、聖性を伝える目的が強く、プロテスタント音楽は信徒の参加と聖書の言葉の伝達に重点を置いています。
  • 音楽スタイルと形式: カトリック教会は伝統的で複雑な音楽形式を好むのに対し、プロテスタント教会はよりシンプルで信徒に親しみやすい形式を採用しています。
  • 信徒の関与: カトリックでは専門の合唱団や楽団が演奏を担うことが多いのに対して、プロテスタントでは全信徒の歌唱参加が一般的です。

これらの違いを理解することは、キリスト教音楽の豊かさと多様性を深く理解する上で不可欠です。

カトリックとプロテスタントの音楽は、それぞれの宗派の神学と礼拝のスタイルを反映し、信仰表現の美しい多様性を提供しています。

カトリックとプロテスタントの対立の歴史

カトリックとプロテスタントの関係は、歴史的に見ると、対立の時期もありましたが、現代においては相互理解と協力の方向へ進んでいます。

16世紀の宗教改革が起こる前は、西ヨーロッパのキリスト教は主にローマ・カトリック教会によって統一されていました。

宗教改革は、教会の教義や慣行に対する批判から始まり、マルティン・ルターをはじめとする改革者たちが新たな教派を形成しました。

これがプロテスタントの誕生です。

この過程で、多くの対立や宗教戦争が発生し、キリスト教世界は分裂しました。

歴史的対立

宗教改革の期間とその後の数世紀にわたり、カトリックとプロテスタントの間には深刻な対立がありました。これには宗教的信条の違いに基づくものや、政治的・国家間の対立が絡んだものも含まれます。

この時期には、互いに対する迫害や戦争も少なくありませんでした。

現代の関係

しかし、20世紀に入ると、両者の関係は大きく変化し始めました。

特に第二バチカン公会議(1962-1965)は、カトリック教会における他のキリスト教宗派との関係改善の契機となりました。

公会議では、キリスト教の一致を目指すべきという姿勢が示され、「分離した兄弟たち」という表現を用いてプロテスタント信徒に対する敬意を表しました。

現在、カトリック教会とプロテスタント教会は、対話を通じて相互理解を深め、共通の信仰を基にした協力を進めています。

エキュメニカル(キリスト教の一致を目指す運動)の精神に基づき、祈りの集いや社会的な活動で協力する例も多く見られます。

対立のために起こった悲しい歴史

カトリックとプロテスタント間の対立が原因で起こった迫害や戦争には、以下のような歴史的な出来事が含まれます。

1. 宗教改革(1517年〜)

  • 始まり: マルティン・ルターが95ヶ条の論題を発表し、教会の慣行に対して改革を求めたことから始まりました。
  • 影響: ルターの行動はヨーロッパ中で宗教改革を引き起こし、プロテスタントの様々な教派が誕生しました。

2. ドイツ農民戦争(1524年〜1525年)

  • 背景: 宗教改革の影響を受けた農民が社会的・経済的改革を求めて蜂起しました。
  • 結果: カトリックとプロテスタントの対立だけでなく、社会階級間の対立も含まれていましたが、多くの農民が殺害される悲劇に終わりました。

3. フランスにおけるユグノー戦争(1562年〜1598年)

  • 概要: フランス国内でカトリックとプロテスタント(ユグノーと呼ばれた)間の宗教対立が引き起こした一連の衝突。
  • 特筆すべき出来事: サン・バルテルミの虐殺(1572年)で、数千人のプロテスタントがカトリックの信者によって殺害されました。

4. 三十年戦争(1618年〜1648年)

  • 背景: 最初はボヘミアでの宗教的対立から始まりましたが、やがてヨーロッパ全域を巻き込む大規模な戦争へと発展しました。
  • 結果: ヴェストファーレン条約で終結し、ヨーロッパの国境と主権国家体系が再編されました。宗教的な寛容が一部で認められるようになりましたが、大きな人的・経済的損失をもたらしました。

5. イギリス内戦(1642年〜1651年)

  • 背景: 政治的・宗教的対立が原因で起こった一連の紛争。主に王党派(カトリックおよび英国教会支持)と議会派(プロテスタントの一派、ピューリタンを含む)の間で戦われました。
  • 結果: 王政が廃止され、一時的に共和政が樹立されました。

これらの出来事は、カトリックとプロテスタント間の宗教対立がどのように政治的・社会的な紛争に発展し、時には大規模な戦争にまで至ったかを示しています。しかし、これらの対立の歴史を乗り越え、現代では宗教間の対話と協力が進んでいます。

バッハの音楽観

実際にバッハが教会のために作曲した楽曲のリストをここにまとめてみます。

作曲年 楽曲形態(ジャンル) 曲名
1707 カンタータ 「哀れみ深き神よ」BWV 131
1714 カンタータ 「わが心の中のイエス」BWV 147
1716 カンタータ 「主はわが牧者」BWV 104
1723 カンタータ 「主よ、人の望みの喜びよ」BWV 147
1724 パッション(受難曲) 「ヨハネ受難曲」BWV 245
1725 カンタータ 「イースターオラトリオ」BWV 249
1727 パッション(受難曲) 「マタイ受難曲」BWV 244
1729 カンタータ 「天の王、歓迎されよ」BWV 182
1731 オラトリオ 「クリスマス・オラトリオ」BWV 248
1734 オラトリオ 「復活祭オラトリオ」BWV 249
1735 カンタータ 「賛美歌:我らが口と心で」BWV 128
不詳 ミサ曲 「ミサ曲 ロ短調」BWV 232
不詳 カンタータ 「すべてのものは、神の言葉によって」BWV 80

ほんの一部になりますが、有名なところはこういう楽曲です。

バッハが、教会のために書いた音楽はプロテスタントがベースとなっており、イエスの教え、聖書に対して厳格な概念が含まれていたと考えられます。

では、イエスの教えによる厳格な概念の音楽とは一体どんな存在でしょうか。

自然界と繋がっていたバッハの概念

バッハの意思というものを音楽家としてアナライズする際に重要になってくるのは、バッハが音楽という存在そのものをどの範囲まで広げてみていたのか?という点に尽きると思います。

例えば、カトリック音楽の中で演奏される祈りの音楽。

これはより伝統的で、儀式的な要素が強かったと考えられますし、一方でプロテスタントの音楽はいわゆる新興音楽という立ち位置になるでしょう。

より儀式的なカトリック形式の音楽も当然バッハは理解していたと思います。

まずはバッハの音楽観を語る前にカトリック音楽について考察してみましょう。

儀式としての音楽の意味

その昔、モーツァルトは5歳で、当時カトリック教会内で行われる義式のためのミサ曲、30分以上あるものを丸暗記して教会の外で楽譜に起こしたとされています。

なぜそういう発想になったのか?
それは当時の教会音楽の様子をイメージしてみると一目瞭然です。

教会の音響に見る周波数の倍音

もちろん、それは当時は、、、というよりも今現在もですね、秘儀だったわけです。

現在は楽譜という形でミサ曲なども私たちは広く手にすることができるわけですが、(一部においてのみ)当時は当然楽譜として出版できるはずもなく、教会の音楽部に伝えられた秘儀なのです。

では何が秘儀か?

それは祈りの力、そして祈願の力、そして病気の治療など、人々の悩みを解決するための場所として機能していたわけです。

「教会で神様に祈りを捧げると病気が治った、歩けるようになった」そんな現代の科学者たちが聞くと卒倒するような奇跡のような出来事は本当に起こっていましたし、実は現代でも起こすことは可能です。

なぜそんなことが起こるのか?

スピリチュアル的な視点と、音響学的な視点両方から考察することができます。

当然量子物理学的な視点でも解説可能でしょう。

それは最も簡単な方法です。

詳しくはこちらの記事を参考にしてください。

フォトン素粒子に見る輪廻転生の仕組み〜なぜ音は人を幸せにするのか?論理的に解説

音が病気を治癒する仕組みについてはまだ追って光の音楽チャンネルでお届けしますが、具体的には逆位相という仕組みで解決することができます。

逆位相について簡単に解説しておきましょう。

逆位相で消滅するもの

音響学における「逆位相」(反位相とも呼ばれる)は、ある音波が別の音波と完全に逆の位相を持っている状態を指します。

位相とは、波形の特定の時点における波の状態(山や谷の位置)を示すもので、逆位相の音波は、ある波形が山を形成しているところで、もう一つの波形が谷を形成しているという関係にあります。

逆位相の効果

逆位相の音波が互いに重なり合うと、相互に打ち消し合う現象が起こります。

これを「干渉」と呼び、特に位相が完全に逆の場合、理論上は完全な打ち消し(消音)が起こり得ます。

これは「相殺」や「ノイズキャンセリング」として応用されることがあります。

実際スピーカーを適切に配置して、逆位相の音響を再生すると、音は完全に消えてなくなります。

それは録音技術、再生技術にも含まれており、逆位相の概念は音響学だけでなく、電子工学や信号処理など、他の分野でも重要な役割を果たします。

音の性質を理解し、制御するための基本的な原理として、さまざまな技術や製品開発に応用されているわけです。

さらにフォトンの回でも解説しましたが、この宇宙の最小単位である振動(素粒子をあえて振動と表現)も、つまりパルス、山と谷があるわけです。

すべての物体にバイブレーションがある以上、物体に対する逆位相は存在します。

もちろんそれがどのパルスに該当するかというのは長い研究が必要でしょう。

しかし、おそらくは、量子物理的な視点を持っていた釈迦はもちろんイエスにおいても、この振動であるという理解と、愛の振動という理解、そして、魔と呼ばれる振動という理解、そして逆位相でそれらを消すことができるという理解があったわけで、カトリックなどの厳格な伝統儀式を秘儀として考えた時に教団内でそれが語り継がれていた(いる)と考えると、これらの病気治癒の奇跡は説明ができます。

バッハのミサに隠された周波数の叡智

ミサ曲の「ミサ」とは一体どういう意味があるのか?語源はなにか?

気になりますよね?

ミサというのはキリスト教の典礼の一つで、特にカトリック教会において最も重要な礼拝儀式を指します。

この言葉は、ラテン語の「missa」に由来し、典礼の終わりに用いられる「Ite, missa est」(行きなさい、送り出されました)という言葉から来ています。

このフレーズは、典礼が終わり信徒が世界に送り出されることを意味しています。

つまり、「ミサ」とは、信徒が集まり、キリストの最後の晩餐を記憶し、聖餐(ユーカリスト)を共に分かち合う礼拝のことを指すのです。

ミサ曲は、このミサの典礼において歌われる音楽を指し、通常、以下の部分から構成されます:

  1. キリエ(Kyrie): 「主よ、憐れみたまえ」という祈り。
  2. グロリア(Gloria): 神の栄光を讃える歌。
  3. クレド(Credo): 信仰告白。
  4. サンクトゥス(Sanctus): 「聖なるかな」と讃える歌。
  5. ベネディクトゥス(Benedictus): 「祝福されたかな、主の御名によって来る者」と讃える歌。
  6. アニュス・デイ(Agnus Dei): 「神の子羊」と祈る部分。

これらの部分は、ミサの典礼の中核を成し、多くの作曲家によって異なる音楽的解釈がなされてきました。

ミサ曲は、中世から現代に至るまで、西洋音楽の発展において重要な役割を果たしており、グレゴリオ聖歌から始まり、多声音楽、バロック、古典派、ロマン派、現代音楽に至るまで、様々なスタイルで作曲されています。

バッハ自身はグレゴリオ聖歌の影響と、伝統的なカトリック音楽の影響も受けながらプロテスタント教派の音楽を作曲してきました。

グレゴリオ聖歌がどの程度伝承されているか?というのも非常に重要な項目になります。

グレゴリオ聖歌の霊的(量子物理的)な解釈

グレゴリオ聖歌は、西方キリスト教(主にカトリック教会)の伝統的な聖歌であり、中世初期に確立された単旋律の聖歌のこと。

単旋律というのが非常に重要な要素となっており、これらの聖歌はラテン語で歌われ、教会の典礼、特にミサと聖務日課(日々の祈りの時間)で使用されます。グレゴリオ聖歌は、西洋音楽史における最も古い音楽形式の一つとされ、後の西洋音楽の発展に大きな影響を与えました。

ここを見る時に重要になってくるのがギリシャの音楽になります。

ギリシャの音楽に関してもまた別の機会にまとめていきましょう。

起源と歴史

グレゴリオ聖歌の名前は、6世紀にローマ教皇だったグレゴリウス1世(グレゴリー大)にちなんでいます。

伝説によると、彼がこの聖歌の整備に貢献したとされますが、この説には異論もあるので慎重に考察していきましょう。

実際には、これらの聖歌は何世紀にもわたる伝統の結晶であると考えるのが自然で、多くの音楽家によって形成され、修正と発展を繰り返して来たと考えられます。

現代の音楽理論的解釈は不可能

また、これらの音律やスケールに関しても現代の音楽理論的な尺度では測れない、理解を超えた存在であると考えられます。

実際モード旋法と呼ばれるスケールが使われており、長調や短調という区別が存在しない概念を持っています。

ルドルフ・シュタイナーが明かしているように、長調や短調という概念がはじめて存在したのはアトランティスの後期になってからのこと。

実際、アトランティスの名残もあり、人間は子供のころ、短調と長調、つまり3度の感覚を持ち合わせておらず、区別ができません。

そして、これらがのシュタイナーが明かした霊視的事実を「私たちの分野は科学である」と豪語する音楽と心理学的なアプローチの研究で取り上げられているのも非常に面白い事実です。

これは科学の範囲で音楽、音は取り扱えない、手に追えないという一つの結論であると考えて問題ないのではないでしょうか。

グレゴリオ聖歌は、中世からルネサンスを通じてヨーロッパの宗教音楽に大きな影響を与えました。

また、20世紀に再び関心が高まり、古楽復興運動の一環として研究され、演奏されるようになっています。

ただし、その音律や、スケール、抑揚もそうですし、教会という音場で響かせたときの人間に与える物理的または霊的な効果に関しては未再現であると推測できます。

これらは根気よく研究を続けていけば必ず到達できるポイントであるとCuranz Soundsは確信を持っているわけであります。

バッハの平均律は圧縮コード

さて、なぜバッハは平均律を採用したのでしょうか?

モーツァルトを含めて平均律に対して異常に嫌悪感を持つ音楽家は少なくありません。

それはいわば、純正律vs平均律とも言える戦いの一つなのかもしれません。

神に精通し、神の音楽を作り、神の音楽を人々に届けていたバッハが平均律を採用し、楽曲の効率化を図るはずがない・・・と筆者は確信しています。

ではなぜ採用したのか?

それが叡智の圧縮コード説というわけです。

あのピタゴラスの時代も音と宇宙に関する叡智は秘教として、社会から姿を消したと言われています。

37歳で平均律を採用

ヨハン・セバスティアン・バッハが平均律を採用し、その成果として『平均律クラヴィーア曲集』を作曲したのは、1722年に第1巻が完成した時で、彼が37歳のときです。

第2巻は20年後の1742年に完成しており、バッハが57歳の時期に当たります。

ただし、これはバッハが世界で初めて平均律を「作った」というわけではないんです。

平均律の概念自体は、バッハの生前からすでに存在しており、数学的には古くから理論化されていました。

平均律調律の歴史

平均律調律の考え方は、16世紀にはすでに提案されていたとされます。

17世紀に入ると、平均律の理論と実践に関する研究が進み、特に音楽理論家や楽器製作者の間で興味が持たれるようになりました。

平均律調律の実用的な導入に関しては、17世紀から18世紀初頭にかけて、特に鍵盤楽器の調律に関する文献で言及されるようになります。

バッハ以前にも、平均律調律を使用することで全ての調で均等に演奏できる楽器の調律法について研究していた音楽家や理論家がいました。

しかし、バッハが『平均律クラヴィーア曲集』を通じて平均律調律の美学的可能性を広く示したことで、平均律調律は音楽の世界において重要な位置を占めるようになりました。

また、一説によると教育目的でもあったと言われています。

それは例えばジャズミュージシャンが12キーすべてで楽曲を瞬時に演奏する訓練を積むような感覚であると言えます。

12キーすべてを自由に行き来する頭の体操、つまりそろばん的な音楽教育の一種だったのではないか?

また、音楽教育、トレーニングと神の音楽をわけていたのではないか?という感覚が筆者は一人の音楽家として持っています。


バッハの時代に採用されていた、またはそれ以前に数学的に理論化されていた音律の種類には、以下のようなものがあります。これらの音律は、音楽の調和と実践に対する異なる理解とアプローチを反映しています。

素粒子と調和するための整数的音の神秘は純正律、またはピタゴラス音律にも秘められていると思います。

12キーという算数的であり非数学的な概念

そもそもすべての調整、キーという概念自体が非常に算数的な発想であり、非数学的です。

西洋算数的な解釈でみるのではなく、世界の音楽に目を向けてみると、例えば雅楽にいたっても12キーという概念はそこにありません。

【日本音楽における神様と通じるコマンド?!黄鐘】〜日本神道の音響特性の秘密

なぜ12キーが必要なのか?

そして平均化が必要なのか?

それは三次元的な意図がある!以外に本来意味はないはずです。

ここにこのバッハの時代に存在していた音律を見ていきましょう。

これらはそれぞれの音楽家が時代と地域、意図によって選択していました。

1. 純正律(ジャスト・インテネーション)

  • 音程を純粋な比率(例えば、オクターブは2:1、完全五度は3:2)で構築します。純正律は、和音の純粋さと美しさが特徴ですが、すべての調にわたってこの純粋さを保つことはできません。

2. ピタゴラス音律

  • 五度(3:2の比率)を基準にして音を配置します。ピタゴラス音律は純正律と同様に古い音律の一つで、和音の純粋さを追求しましたが、いくつかの音程(狼の五度)が非常に不協和になります。

3. 平均律(イコール・テンパラメント)

  • オクターブを12の完全に等しい半音に分割します。これにより、どの調から始めても均等な音程が保証され、全ての調で演奏が可能になります。バッハの『平均律クラヴィーア曲集』はこの音律法の可能性を広く示しました。

4. 中全音律(ミーントーン・テンパラメント)

  • 主に三度の音程をより純正に近づけるために設計された音律法です。これはルネサンス音楽からバロック音楽にかけて好まれましたが、すべての調で均等に使えるわけではありません。

5. ウェル・テンパラメント

  • オクターブを12の半音に分割する点は平均律と同じですが、各半音の間隔が完全に等しくない点が異なります。これにより、各調に特有の「色」を持たせることができ、より表現豊かな演奏が可能になります。バッハの時代に一部採用されていたと考えられています。

シュタイナー的視点に観る宇宙と繋がる音律

実際にはやはり純正律とピタゴラス音律が霊的に意味のある音律であると想像できます。

シュタイナー自身が5度の音程について深く語っていたことに加えて、ピアノという楽器の効率性に対しての霊的な否定が考えられます。

唯一記録に残せる手法

バッハが平均律を確立する前には様々な音律を使用していました。

ピタゴラスの秘教のような形で平均律によって叡智を圧縮したと筆者は考えています。

つまり、純正律やピタゴラス音律的な概念である場合、最も大切な記録に残すということができません。

音律がわからなければ、周波数もわからない。

しかし、平均律に圧縮してしまえば、遠い未来、数百年経った後であっても、解析ができるわけであります。

ここから逆算して、文字通り紐解けるというわけですね。

ここにバッハの音楽の父、そして神の音楽を研究して来た叡智があり、音楽家として紐解く楽しみが眠っているような気がしてなりません。

今後Curanz Soundsでは、グレゴリオ聖歌はもちろん、各教会音楽がどのように作曲されて来たのか?

また最重要項目である、教会の音響特性の解明と研究に尽力したいと思っております。

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