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キリスト教は今や全世界に24億人以上いるとされており、世界最大規模の宗教団体の一つとなりました。
その誕生の背景には様々なドラマがあります。
その中でもイエスが日本に来ていたというお話。
一見すると「とんでも都市伝説」のように見えますが、そもそもイエスが処刑されたというストーリーだって、新約聖書の福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)に記されており、実際にこれらの書物は、イエスの弟子やその弟子たちによって1世紀後半までに書かれたとされています。
ちなみにこれら新約聖書の完成時期に関しては、4世紀初頭までには現行の新約聖書の構成が確立したというのが一般的な認識になります。
特に、325年のニカイア公会議や397年のカルタゴ公会議で公式に認定されています。
となれば、初期の聖書は誰が描いていったのかということにつながるわけですが、処刑に関する記述としては、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが書いた物語が一般的であるわけです。
福音書 | 著者 | イエスとの関係 | 信憑性 | 史実性 |
---|---|---|---|---|
マタイ | 使徒マタイ | 直接会っていたとされる | 教会で信頼される | 重要な情報源 |
マルコ | マルコ | ペトロの証言に基づく | 最古の福音書 | 高い信憑性 |
ルカ | ルカ | パウロの証言に基づく | 詳細な調査 | 信頼性が高い |
ヨハネ | 使徒ヨハネ | 直接会っていたとされる | 独特の視点 | 神学的要素が強い |
という状況があるわけですが、325年のニカイア公会議や397年のカルタゴ公会議で公式に認定されているということはどういうことかといいますと、まず最初は325年までの間、新約聖書は結構書き換え放題だったと言えるわけです。
その証拠に325年のニカイア公会議以前は、各地方によって復活祭の日付がバラバラだったりしたそうですし、397年のカルタゴ公会議
そういう意味ではパウロをはじめ、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが書いていった聖書は、わずか300年ちょっとの書き換え放題であると言えますが、同時にやはり布教活動のためのフィクションと史実の見分けは誰にもできないというところにあります。
新約聖書自体はイエスが書いたわけではないわけです。
日本への移動と竹内文書
日本の青森県新郷村には、イエスが30代の頃に日本に来て、後に故郷に戻り、再び日本に来て最終的に新郷村で死んだという伝説があります。
この説は「竹内文書」という古文書に基づいていますが、その信憑性は非常に疑問視されています。
新郷村には「キリストの墓」と呼ばれる場所があり、毎年多くの観光客が訪れます。
この伝説は1920年代に急速に広まりました。
四国にも同様の伝説がありますが、詳細は青森の伝説ほど知られていません。これらの話は主に地域の伝承として伝えられています。
日本へのルート
では仮にイエス・キリストが1世紀にヨーロッパ(正確には中東地域)から日本に渡ってきたと仮定した場合、どういうルートがあったのでしょうか?
以下にそれぞれのルートと推定所要時間を示します。
1. シルクロードを経由する陸路
- 中東(パレスチナ地域)→メソポタミア→イラン高原→中央アジア→中国→朝鮮半島→日本
推定所要時間:徒歩および馬車:1年以上(約2-3年)
シルクロードは古代から交易の道とし使われていました。
中東から中国までの道のりは非常に長く、地形も過酷です。
中央アジアを経由して中国に到達し、その後朝鮮半島を経由して日本に渡る必要があります。
移動速度は交通手段や気候条件によって変動しますが、徒歩と馬車を用いた場合、少なくとも2-3年はかかると考えられますが、不可能なルートではありません。
2. 海路を利用するルート
ルート
- 地中海(イスラエル)→紅海→インド洋→東南アジア→東シナ海→日本
推定所要時間:船旅:6ヶ月から1年
地中海から紅海へは、スエズ地峡を陸路で渡るか、ナイル川を利用する必要があります。
紅海からインド洋を経由し、マラッカ海峡を通って東南アジアへ進みます。
そこから東シナ海を経由して日本に到達するルートです。
海の状態や船の技術によって所要時間は大きく異なりますが、当時の船旅では少なくとも6ヶ月から1年はかかると考えられます。
3. 混合ルート(陸路と海路の併用)
ルート
- 中東(パレスチナ地域)→ペルシャ湾→インド洋→中国南部→日本
推定所要時間:徒歩・馬車・船:1年から2年
中東からペルシャ湾まで陸路で移動し、ペルシャ湾からインド洋に出て、インドを経由して中国南部に向かいます。
そこから陸路で中国を横断し、日本に到達します。
このルートは陸路と海路の併用ですが、距離が長いため、1年から2年はかかると推定されます。
イエスは処刑されていない
さて、新約聖書自体は、ペテロやヤコブをはじめ、主な著者はパウロであり、処刑のストーリーなども弟子たちが書き加えていったもの。
325年のニカイア公会議までは書き換えが実質自由にできてしまったことなどを考えると、イエスの処刑や復活の歴史をそのまま鵜呑みにする理由はどこにもありません。
「身代わり説」というのもありますが、あれだけ熱狂的な信者とムーブメントを確立したイエスですから、そういった身代わりを申し出る、または、受け入れる弟子がいたことは不思議ではありません。
当時イエスは指名手配中でしたので、身代わりが出れば、実質の指名手配は解除となるわけで、自由になることができます。
当然ガリラヤ付近にはいられないのは明白ですから、どこかに旅に出るということは真っ先に考えられるのかもしれません。
パウロが「死んだはずのイエスが現れた」というニュアンスで言葉を残していることから、処刑(身代わりかもしれない)があったことは事実でしょう。
身代わりであるならば、パウロの元に現れたのも自然なことですし、325年のニカイア公会議までは各地域で復活祭の日付もバラバラだったことも納得ができます。
つまり、「死んだはずのイエスに会った」という時期、日付がバラバラだったということでしょう。
処刑当日の様子
イエスを十字架につける判決を下したのは、ローマ帝国のユダヤ総督、ポンティオ・ピラトでした。
彼は当時、ユダヤ人の長老、祭司長、律法学者たちの訴えによってイエスを裁こうとしているというわけです。
ところが、ピラトはその訴えを見るに、ローマ帝国の法律にはなにも触れていないという判断をしたわけです。
「ユダヤ教のなんたるは知らんがな・・・ローマ帝国的には別になんもしてないやんか!え?友達連れて旅してただけやろ?」
というわけです。
そこはまあ一切引かないユダヤ教徒たち。
ピラトは結局、「わかったわかった、ほんなら鞭打ちにしようか?まあこれだけ騒がせたんやし、鞭打ちくらいせなあんたら(集まったユダヤ教徒たち)も納得せんやろ・・・せやけど処刑にするんはさすがにちょっと無理があるで・・・」
というわけです。
「鞭打ちで釈放がええとこちゃうか?」というと、ユダヤ教徒たちは、過越祭のならわしでイエスが釈放されると勘違いしたそうなんですね。
過越祭はユダヤ教の大事なお祭りであり、ローマ帝国でも、過越祭には囚人を一人無罪放免釈放するというならわしがあったそうです。
「イエスじゃなくてバラバにしよ!」というわけです。
バラバとは、暴動と◯人の罪で囚人となっていたわけですが、ユダヤ教徒にとって今必要なのは、やはり武力であり、愛ではなかったわけですよね。
民衆は怒り狂い、「バラバを釈放し、イエスの処刑を!」と大声で求め始めます。
ピラトは引き続きなんとかイエスを釈放しようと説得をするわけですが、民衆の声でかき消されるわけです。
「いや、こいつまじで何したんや?」と言っていたそうです。
ピラトはもうどうすることもできず、「いや、もうこれどないしょもないで・・・ローマ帝国的には無罪やからな・・・そこまでいうなら、もう俺らは知らんから自分らで好きにしたらええやん」というわけです。
そんな無責任な・・・というところではありますが、それほどまでにピラトもどうすることもできなかったということでしょう。
なぜ後世でユダヤ人は迫害されたのか?
ここでみてわかる通り、歴史的にみても、救世主であるイエスを処刑したのはユダヤ人たちであるという認識がその後の歴史に大きく影響しました。
一時期は罪の擦り付けを行うためにこのピラトという人を暴君に仕立て上げてイエスを処刑したのはあくまでもピラトであるという歴史を広めようともされたそうですが、ルカ福音書のピラトは無実にしようとしたという記述が優先されています。
何が真実かはもちろんわかりませんし、福音書などに関しては基本的にキリスト教に都合がいいように書かれているわけですから、より不明瞭であります。
仮にユダヤ人がこのエピソードのように声をあげていたとしても、それは一部の過激なものたちの集まりであることは確かでしょう。
ナチスのホロコーストでも一つ影響していることは確かですが、後世に純粋なヤハウェ、エロヒム信仰を持つユダヤ教徒たちに対する迫害は許されません。
また、キリスト教徒からすると、教祖のような存在であるイエスを無実の罪で◯されたという積年の恨みがあるわけですね。
復活を機に信者になったものたち
やはりパウロが一番に上がるかと思います。
実はペトロだって、復活があったからこそ、確固たる信仰心を持てたとも言われています。
ちなみにペトロは初代ローマ教皇ですが、イエスから天の国の鍵を預かっているといわれており、代々受け継がれているそうです。
現在第266代ですが、今のフランシスコさんも天の国の鍵を持っているのでしょうか?
是非ルパン3世に狙ってみてほしいですね。
他にも当然復活を機に信者になったり、信仰をもったりしたものたちはたくさんいたことでしょう。
復活の流れ
ここで念の為復活の流れを簡単におさらいしておきましょう。
イエスが処刑されてから3日目の4月9日、日曜日の朝でした。
イエスに仕えていた「マグダラのマリア」ら女性たちが、遺体を清めにイエスの墓へむかいます。
ところがなんと墓が開いているではありませんか。
イエスの遺体はそこにはなかったのです。
すぐに弟子のペトロとヨハネに知らせ、ペトロとヨハネは墓の中を調べましたが、マリアの言う通りでした。
2人が帰った後マリアは墓の前に立ち、大切な遺体が盗まれたということに対し泣いていました。
そうすると後ろから「なぜ、泣いているのですか?」と声をかける、「振り返るとイエスがいる」、、、なんとそこにはイエスが立っていたではありませんか。
イエスの姿はそのまますぐに消えていったそうです。
マリアがおそらくはじめた?でしょうが、その後蘇ったイエスの姿を見たという人たちは500人にもなっています。
ユダを除いた11使徒たちが食卓についているところにも姿を現しています。
復活を信じない使徒の1人トマスには自身の手と脇腹の傷を見せています。
イエス復活から40日目、エルサレムに近いオリーブ山にイエスは使徒たちと一緒に登りました。
そして、次のように弟子たちに伝えました。
「あなたたちは、全ての国の人々を弟子にしなさい。父(神)と子(イエス)と聖霊の御名によって洗礼をさずけ、わたしがあなたたちに命じたことを、全て守るように教えなさい。私は世の終わりまでいつもあなたたちと共にいます。」
イエスはゆっくりと天に昇って行きました。
というストーリーです。
もちろんこれはキリスト教を作るにあたり、教祖的存在だったイエスの言葉が必要だったために作られたストーリーであると想像もできますし、仮にイエスの身代わりが処刑され、日本に到来したという説があるとすれば、教団を作らせて熱狂的なユダヤ教徒たちの注目を教団に向けさせておくという狙いもあったかもしれません。
あるいは、霊体のイエスに会うというスピリチュアル的な事実であった可能性ももちろんあります。
なぜ日本を目指したのか?
日本という存在は当時のローマ帝国の人々はほとんど持っていなかったと推測するのが妥当です。
イエスは釈迦の哲学も知っていた、または勉強していたとする説もありますが、仮にこの説通りだったとして、釈迦は未来に弥勒菩薩(Maitreya)が出現し、人々を救済することを予言しており、釈迦自身は特定の地域や方向についての言及はありませんでしたが、東アジアの国々で、この弥勒菩薩の信仰が広まっていっているのも事実。
ただし、弥勒菩薩が登場するのは、釈迦が入滅してから56億7千万年後の未来とされています。
仏教は紀元前5世紀頃、インドの釈迦(ゴータマ・シッダールタ)によって創始されており、1世紀前半には、仏教は早くも分派を開始。
主に上座部仏教(テーラヴァーダ)と大乗仏教(マハーヤーナ)という二大潮流が形成されつつありました。
既に中央アジアや東南アジアにも広がり始めており、シルクロードを通じて西方へも影響を及ぼしていました。
さて、シルクロードといえば、イエスが処刑された1世紀前半、すでに東西を結ぶ重要な交易路として存在し機能していたわけです。
しかし、当時の人々にとってシルクロードは個別の交易路の集合体であり、19世紀にドイツの地理学者フェルディナント・フォン・リヒトホーフェンによって「シルクロード」という統一された概念が提唱されるまでは、そのような名称はありませんでした。
シルクロードは物品の交換だけでなく、文化や宗教の交流にも大きな影響を与えていたわけです。
イエスの思考回路を想像するに、ローマ帝国の法律では明らかに無罪であったとしても残酷な処刑が行われようとするほどに指名手配度は増していたわけで、仮に身代わり説があったとすれば、ようやく指名手配が解除されたわけで、ローマ帝国から遠く離れた地に身を隠したいと思うのは自然なこと。
その際に、弟子たちの前に現れ、キリスト教を組織させる。
ローマ帝国内ではユダヤ教とキリスト教(弟子たち)がバチバチ始めてる。
当然シルクロードで東の方に行けばイエスの噂は立っていない。
という推測ができますが、これだけの理由でサポーターとなる弟子たちが不在の中、また道中でのお布施も見込めない中で西安あたりまでならまだしも、日本海を渡って日本に行く・・・というのはどうにも考えにくいところではあります。
今後さらにいろいろな考察と資料を探しながら第二弾へと続けたいところですが、今回の日本に行った理由としては、「身代わり説があった場合の身を隠した説」ということで考察したいと思います。
大変に重要なことは、日本にイエスが来ていたとするのはイエスが残したものではなく、イエス以外の人が勝手に作ったストーリーであるとするのであれば、新約聖書も同様にイエスが残したわけではない弟子たちまたは、後世の人たちが勝手に作ったストーリーであるということです。
どちらも何が本当かはわからないということであり、聖書を執筆した一人であるパウロはイエス迫害の第一人者だったことを忘れては行けません。