正しい信仰心と正しい神様

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この言葉そのものが矛盾する非常に面白いタイトルを付けさせてもらった本日のブログ。

正しい信仰と正しい神様とはなんでしょうか?

グローバリズムと反グローバリズムと照らし合わせながら正しい信仰と正しい神を語りたいと思う。

グローバリズムと反グローバリズムというのは単に陰謀論かそうでないか?

という話ではありません。

やはり全体主義か非全体主義か?

という区別が一つできるかと思います。

個人主義という言葉をあえて使わなかったのは、国家の運営が政府という概念に依存するのが現代の常識であるからです。

もう一つはやはり科学を信仰するかそうでないか?

という区別もできるのではないでしょうか。

筆者は前者の区別が政治思想的であるのに対し、後者の区別は芸術的であると認識しています。

わかります。

芸術的という言葉は非常にずるい言葉なのであります。

人々を支配するもの

おそらく反グローバリズムに偏っている方の中には

右による全体主義(例えばナチスなど)や、左による全体主義

つまり「共産主義ともども、解体するべきである、その先に真の自由があるのである」という方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、筆者の考えでは、「真の自由とはどこにあるか?」というと、≒ではあるのですが、「恐怖からの解放」の先にあると確信しているわけであります。

決して打倒グローバリスト、そして反グローバリズムの勝利の先にあるということではないと思うわけです。

科学信仰と非科学信仰

ここでもあえて非科学信仰という言葉を選びましたが、やはりグローバリズムを語る上では、科学信仰と神様信仰を理解し、その全体の要素の中から自由を探す論争があるのではないか?

というわけです。

グローバリズムは科学信仰がベースにあるということにお気づきの方も多いのではないでしょうか?

詳しくは論じませんが、産業革命以来、全知全能の神様がベースになっている全体主義文明、文化というのは一時的に発生しかけた事例はありますが、基本的には発生していません。

ここでわかるのが、非科学信仰をベースとした全体主義もかつては存在していたということ。

これもいわずもがなですが、宗教による統治、政治というのは、産業革命以前の歴史において、当たり前に行われていた統合監視社会の手法であったわけです。

有名な織田信長は天下泰平の世の中を目指して全国統一を目論んでいました。

彼は「俺は神になる」と大河ドラマで語っていたシーンがありましたが、おそらく実際にそういった統治の手法を持っていたことでしょう。

自由を手に入れるための正しい信仰とは?

古代の人類文明においても、現代であっても

仮に自由を手に入れようとする場合、正しい信仰を持つ必要があります。

正しい信仰とはなにか?

ここから少し考察してみましょう。

信仰とは何も神や仏に対してだけではありません。

仮に科学を信仰する信者の方も同様であると言えます。

「この科学的事実を受け入れなければ〇〇のような恐ろしいことになる」

これは正しい科学信仰とはいえないでしょう。

なぜなら、この科学的事実とは、単に事実であり

そこから想定される恐ろしいことは推測に過ぎないからです。

推測は証明してはじめて現実となるわけですが

証明とはつまり現象の観測でしょう。

これは宗教文化においても同様のことであると言えます。

「このお守りを持っていなくては悪魔に取り憑かれる」

などです。

科学信仰であっても、非科学信仰であっても決して恐怖を持たないことが、真の自由を手に入れる鍵になると言えるのです。

仮にあなたが「自由を手に入れたい」場合

正しい信仰とは、恐怖を手放せる信仰心のことであると言えます。

と、ここまで書いてきてたどり着くのはやはり釈迦の哲学になります。

釈迦はとにかく執着を手放すことを教えていました。

ということは、詰まるところ科学信仰でも非科学信仰でも自由は手に入らない、哲学信仰こそが自由を手に入れることができる・・・

という言い方もできますね。

神や仏を信じることでさえ執着であり、手放してみましょう。

ん?矛盾しているんじゃない?

いえいえ、もう少し言葉を変えましょう。

全知全能の神や仏が存在していて、あなたをジャッジしているという信仰ではなく、神や仏が存在するという確信を正しい信仰と定義しましょう。

だって、前者であれば、グローバリズムからの監視から、神や仏の監視に変わっただけじゃないですか。

正しい信仰の元で存在する神様は決してあなたを監視したり、あなたの倫理をジャッジしたりはしません。

恐怖を手放す方法

あなたが恐怖を感じるから恐怖が生まれます。

何を当たり前のことを・・・

そうなんです。

観測をした段階からそこに概念が存在する。

これはすごく当たり前のことなのですが、どういうわけか、一部の科学信仰者の間では、逆になっていることが多いわけです。

恐怖がそこにあるから観測する?

そんなはずがないのはさきほど「当たり前のことだ!」と感じたあなたであればわかるはず。

だから恐怖を観測しなければいい。

恐怖に対する執着を手放せましたか?

神様の創り方

神様なんてみたことないからいない!

そう思う方もいるかもしれません。

しかし、神様はいるんです。

少なくとも筆者は常に神様から見守られています。

ここが宗教と哲学の分かれ目となります。

宗教とは非科学信仰による全体主義であるわけですが、ここに異を唱えられるグローバリズムを全体主義と定義する反グローバリストはいないはずです。

同時に科学信仰も全体主義であることは論じるまでもありません。

となれば、神様に自由を創造してもらえばいいんです。

その方法は、ジェームススキナーさんの神の数学を読めばヒントが書いてあるかと思います。

よりわかりやすく神様に見守ってもらう方法、自由を創造してもらう方法は、Curanz Soundsの「人生開拓の法」にある、こちらの記事をご覧ください。

手かざしで水をワインに変えるという中道

科学と量子物理学は別物です。

科学が論理1.0であるならば、量子物理学は論理3.0であると言えます。

イエスは水を手かざしてワインに変えてみせましたが、これは科学において立証不可能であると言えますし、科学信者の方は「そんなはずはない」というでしょう。

しかし神や仏を信じる者、神や仏を創り出せる観測者または、量子物理学者の思考回路では割と常識的なことなのです。

観測者によって観測される現象が変わる。

科学信者も非科学信者も哲学者も量子物理学者も、常に中道であるということが、正しい真の信仰を持つことに繋がり引いては真の自由を手に入れることができるのではないでしょうか。

それは絶対の真理を手に入れないということになるわけであります。

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